是より先加賀・能登沿海の廻船を以て業とする者、皆大坂以西中國・九州に至るを目的となし、未だ東北方面に航するものあらざりしが、五兵衞の父は始めて南部・津輕・函館等に至り、五兵衞が木屋より歸るに及び、父の所有せし船舶と主家に於いて練磨せる商略とにより、更に蝦夷各地に取引を開拓せり。偶藩は領内に於いて松前産の干鯡を肥料とするの禁制を解きしかば、五兵衞は此の機に乘じ自家の所有船を悉く松前に廻航せしめ、連りに多量の干鯡を買入れて巨利を博せり。 文政九年五兵衞齡五十四を以て老し、家を長子喜太郎に讓る。喜太郎時に十八歳にして、商務は尚父の督する所なりき。然るに常時藩の財政頗る窮乏せしを以て、資金の調達を庶民に命ずること屢なりしかば、錢屋も亦先に文政九年及び十三年にその命を受けしことあり。殊に天保四年の凶歉以後は連年多額の銀子を調達せざるべからざりしのみならず、十年には商業上の蹉跌により莫大の損失を蒙りたりしかば、五兵衞は新たに家憲を定めて當主喜太郎及び本家錢屋與三八に與へ、今後大に節儉を旨とし、朝夕商事に精勵せざるべからざるを諭したりき。これに關する事情もまたその詳を得る能はずといへども、『家身上(イヘシンシヤウ)にも拘り申程の大損』といひ、當時喜太郎家には、既に質商と材木問屋業とを發し、剩す所の廻船業は必ずしも常に利益あるを期すべからざるが故に、喜太郎の妹りうをして別に分家を金澤に構へしめ、贅壻を迎へて前途有望の商業を起し、喜太郎の支舖として之を經營せしめんことを計畫したるが如き、事態の甚だ重大なりしを察すべし。 家定之事 一、此方先年隱居相願御聞屆之上、嫡子喜太郎え家名商賣不殘相讓り、十八歳より亭主に相定、當年にて十四ヶ年也。然處近年御仕法等にて不慮之損失不少、別而當年は家身上に拘り申程の大損故心配至極致候。是則天道也。乍去世上取引に付何事も壹金も損分を懸不申。此方儀は何之分別もなく不徳に候へども、偏天道佛神先祖之御守故、難有奉仰候。此上は節儉を守として、朝夕商賣方入情心懸候て、御國政を奉敬、世渡大事致候はゞ、必其冥利を請可申候。 一、喜太郎より第一分家は弟佐八郎也。未分家相求め不申候へども、此末能時節を考へ分家可致候。乍去世振人氣一通りからず時節、先當分求め候儀は相見合、請込て(に脱カ)商賣致候はゞ双方勘定も宜鋪、且喜太郎儀役儀も有之、商賣方屆兼候之間、佐八郎本家支配と相心得、諸事申談中能渡世候はゞ、面々身ため(の脱カ)面白く成行候。此事末々迄忘失無之事。 一、妹おりうは聟をもらひ、金澤に小家を相求、此方見込之商賣方有故、當時本家には質なし、材木問屋なし、船商賣はあてあらず、仕入仕込方により喜太郎出棚に致度候。佐八郎も同樣に相加り取懸度候。左候へば二番目分家商賣方は本家支配人と相定、都而諸勘定とも喜太郎等立合可致事。勿論此方隱居事なれば、分家抔は全此方より仕付申あらず。家・家財・商賣共萬事亭主より仕付置候へば、萬端本家等に致隨順可預指圖に者也。左樣に相心得、此段聊遺失無之、幾(行)末和順を以相勤候へば、家々繁昌之基可爲候。右之趣聟たるべく者、篤と忘失無之樣に會得爲致度候。必無如在正路に相勤候へば、其巧(功)徳自然に相敬れ(顯カ)可申候。此事御了定(諒承)置可被下候。依而後日ため書記置申者也。宜敷御承引可被下候。如件。 錢屋喜太郎隱居 天保十年亥十二月五兵衞保高在判 錢屋與三八殿 同喜太郎方 〔石川郡金石二木氏文書〕