河北潟は五兵衞の居村宮腰を北に去ること里餘に在りて、巨浸漫々周回六里餘に達す。五兵衞乃ち以爲く、この湖水を填夷して數萬頃の美田を開拓するを得ば、上は藩庫の收人を増すべく、下は民業を豐かならしむべきのみならず、要職をして十村たらしむるの目的も亦容易に達し得べきなりと。即ち先づ石川郡曾谷村の新田裁許文右衞門に謀りて設計を試みしめ、河北潟沿岸粟ヶ崎村の豪富木屋藤右衞門及び島崎徳兵衞と協同事に當るの利便多かるべきを思ひ、要藏と三人の名義を以て嘉永二年湖畔の埋立新開を出願したるに、幾くもなくその許可を得たり。而して工事の目的は、河北郡東蚊爪村・大浦村・木越村・大場村に高千二百石、才田村・今町村・利屋町村・八幡村・二日市村・岸川村・太田村・潟端新村に高千七百石、八田村に六百石、領家村・指江村・狩鹿野村・内日角村・大崎村に高千百石の田地を得るに在りき。 初め要藏等の埋立新開を出願するや、沿岸七ヶ村の漁民は生業を喪ふに至らんことを恐れて直に反對の運動を起したりといへども、固より富豪輩の反省を促すに足らず。且つ當路の藩吏にして苞苴を受けたるものありしを以て、遂に何等の功を奏すること能はざりき。この事既に物議を釀すの因たりしのみならず、木屋・島崎の埋立は小規模にして、その土工も亦近村の漁民を使役したるに拘らず、錢屋の新開は二千九百石たるべきを豫期せられ、工夫を能登の黒鍬に求め、鳳至郡甲村の理兵衞をして之を引率せしめしかば、非難の聲益熾なるに至れり。