五兵衞が第二回の訊問を受けたる後、郡奉行等は未だ豫審を終結せるにあらざりしといへども、此の如き重大犯人を久しくその管理の下に置くべからずとなし、五兵衞及び要藏は金澤町會所の獄より、孫兵衞は川下牢屋より、九月晦日藩の高等裁判所にして監獄を兼ねたる公事場に假收容せり。次いで十月二日喜太郎の手代市兵衞も亦川下牢屋に投ぜられ、尚口書の整理せらるゝに至るまで郡奉行等の豫審を繼續したりき。然るに五兵衞は頽齡にして囹圄の辛酸に堪ふる能はず、未だ正式の裁判を受くるに至らずして十一月二十二日昧爽遂に鬼籍に上れり。但し錢屋過去帳にその忌辰を二十一日とせるは、同日の夜間として傳へられたるが故なるべし。五兵衞の病状に關しては、公事場奉行本多求馬佐が十月二十三日附の屆書に、『宮腰町錢屋五兵衞儀、公事場借牢被人置候處、先達而より相煩候に付療養方爲致置候處、小便閉いたし候に付藥用致候得共、藥功無之時は道具を以て療養不致候而は通申問敷之旨、三ヶ所御用醫者高澤元簡申聞候。藥功を見合罷在候而者おくれ候に付、先づ道具を以爲致療養候。』といへるによりてその詳を知るべく、尿道狹窄に基づきて尿毒症を發せしが如し。三ヶ所の御用醫者とは、公事場・町會所・川下牢屋兼勤の獄醫をいふ。 かくて郡奉行等は、十一月二日を以て被告の口書八十七通を公事場に送附したりしが、公事場の裁判はその後久しきに亙りて繼續し、公事場奉行前田外記・岡島左膳・石野右近・本多求馬佐、公事場横目役淺野周左衞門・堀忠兵衞之に干與せり。而も要藏以下皆決して流達の事實を白状するに至らず、纔かに指江村孫兵衞の指揮によりて石灰を湖中に投ぜることを漏らしたる者あるのみにて、事態益紛雜に陷り、關係する所亦頗る廣汎に及べり。これを以て審理遷延して朞年を超え、終に嘉永六年十二月六日要藏を磔刑、市兵衞を梟首に定めて、五兵衞と孫兵衞とは已に獄死したるを以てその屍を醢にし事件の落著を待ちたりしが、彼等も亦磔刑に當るといへども實刑を科せざることゝし、喜太郎・作八郎は各永牢となり、喜助・久次郎・九兵衞も亦之に同じく、次いで同月十三日要藏と市兵衞の處刑を宮腰に於いて執行せり。葢し藩の制、磔刑又は梟首を命ぜらるゝものは、通常之を金澤の郊端に於いてしたるも、特に重罪と認めらるゝものに在りては居住地に於いて執行し、之を所磔・所獄門といへり。要藏の死せし時年三十三、市兵衞は四十六。今の金石町の北數町、亭々たる孤松の在る所即ちその刑場たりし地なりといふ。 覺 宮腰町錢屋喜太郎手代市兵衞 不及赦之御沙汰、於所刎首之上梟首。 石川郡寺中村要藏 不及赦之御沙汰、於宮腰領之内磔。 右之者共、先達而於公事場禁牢申付置、遂吟味致言上候得者、落著如斯就被仰出、今日其通申付候條被得其意、要藏儀者家財闕所被申付、市兵衞儀家所持罷在候はゞ是亦家財闕所可被申付、家所持不仕候はゞ所持之品々闕所被申付。前々之通帳面二册同樣、白紙も一枚宛綴込、夫々可被指出候。以上。 丑十二月六日(嘉永六年)本多求馬佐 石野右近 岡島左膳 前田外記 齋藤與兵衞殿 篠島左平殿 前田彌五作殿 奧村典膳殿 篠原平三郎殿 淺香嘉門殿 坂井勘藏殿 近藤兵作殿 石黒堅三郎殿 ○ 宮腰町錢屋 五兵衞 河北郡指江村 孫兵衞 右之者共先達而禁牢中致牢死、兩人共於存命は宮腰領之内に於て磔に可被仰付處、致牢死候ニ付不被及其儀旨被仰出候。被得其意、右兩人家財闕所被申付、前々之通り帳面二册同樣に、白紙も綴込可被指出候。 一、錢屋喜太郎家名斷絶之儀可申渡。然上は家財支配人え取揚、御算用場奉行え相違、指圖次第相心得候樣可申渡旨被仰出候に付、此段申達候條可被得其意候。以上。 丑十二月六日(嘉永六年)本多求馬佐 (下略) 齋藤與兵衞殿 (下略) ○ 覺 宮腰町錢屋 喜太郎 同人養子 佐八郎 右喜太郎下人、石川郡大野村木津屋 喜助 能州鳳至郡腰細村 久次郎 石川郡笠舞付、新田裁許 九兵衞 右之者共、先達而公事場に於て禁牢申付置、遂吟味及言上候得ば、五人共不及赦之沙汰、永牢可申付旨就被仰出、其段申渡牢屋に指置候。 丑十二月六日(嘉永六年)本多求馬佐 (下略) 齋藤與兵衞殿 (下略) ○ 拷札 石川郡寺中村 はりつけ要藏 此者誰彼へ申談、粟ヶ崎等潟之内へ毒を爲入候趣、一件之者共夫々申顯、徒黨棟取無紛候處、度々拷問之上にも不申顯、不屆至極徒者に付如斯申付候也。 十二月十三日(嘉永六年) ○ 石川郡宮腰村錢屋喜太郎手代 梟首市兵衞 此者粟、崎等潟之内へ寺中村要藏等毒を入候一件荷據之儀無紛處、度々拷問之上にも不申顯、重々不屆至極徒者に付如斯申付候也。 十二月十三日(嘉永六年) 〔錢屋一件文書〕