次に河北潟流毒事件の眞相は果して如何。前にも述べたるが如く、埋立工事に從ふ者が石灰若しくは油を湖中に投じて、工區附近に於ける漁撈を妨げんとしたるは事實なる如く、而して之を指揮したるものは要藏又は五兵衞たりしことなきを保すべからざるも、多數魚族の浮流するに至りたることの、果して是と直接關係する所ありしや否やは別に研究を要すべき一問題にして、當時識者中には却りて反對の意見を有するものすらありしなり。即ち藩醫黒川良安は、甞て長崎の地に遊びて最も泰西の知識に富みたる人なりしが、この時自ら舟を湖上に浮べて魚族死滅の實状を考へ、湖水の海に通ずる所狹小にして、風位の關係上一時排水に堪へざりしが爲にその腐敗を來し、急に魚族を斃死せしむるに至りしなりと斷じ、假令毒油を投じたるものありとするも到底この廣汎なる湖面に効果を及ぼすこと能はずと喝破せり。又藩の故事に通曉せる森田平次は、享保六年河北潟に死魚を生じて之を食せし者の中毒状態に陷りし事例を引き、今次の事變も亦天候循環の因りて致す所なりと論じ、己は陪臣に列するを以て、友人湯淺彌左衞門祇庸を介し之を藩侯齊泰に進言せり。是等の論旨極めて明晰にして、概ね傾聽すべき價値あるのみならず、時正に中夏に際したるを以て、腐魚を食ひしものゝ病を得、甚だしきは命を殞すものあるに至りしことも亦疑を容れず。然るを藩吏徒らに流言蜚語の囂しきに狼狽し、魚價の低落によりて生計に艱める漁民の喧騷するに驚駭し、遂にはこの死魚を肥料に供するも亦耕作物を害するの恐ありとなし、九月一日には藩侯の庖廚に蔬菜を納入する商人を招きて、河北郡諸江及び沖産の蓮根、今濱・高松等の初茸・黄茸・松露、その他湖邊に産する諸品を提供するなきを誓はしめ、鷄卵にも亦同一の制限を加へたるのみならず、九月初旬に至るまで南は石川郡本吉より北は羽咋郡瀧に亙る海面の漁撈を禁止し、藩侯の一族に對しては鹽藏せるものゝ外食膳に上すことなからしめたりき。當時世人恐怖の状の異常なりしことは、『潟魚一件に付闕所迄の記録』と題したる册子に、『錢五の咄最中に彦根より、米の早搗の糠を喰候馬牛、右同國に於て夥敷死し候よし越前の國より當所へ申來候よし、組合頭呼立御申渡し在之。又々其節因幡國より鋤賣參り、其鋤にも毒を仕込あるとて評判仕、鋤賣も御咎を蒙り、其節針を商ひ候坊主が徘徊致候に付、是又召取られ御詮議に相成、針に毒があるとのことを人々噂致し候。』とあるが如き、滑稽にして沒常識なるにすら至りたりき。是を以て藩吏は、強ひて石灰投入の嫌疑と、腐魚の發生して之を食ひたる者の中毒せる事實との間に因果の關係を求めんと欲し、要藏が服罪せざりしに拘らず、不屆至極の徒者なりと斷定して磔刑を宣告し、要藏等も亦自ら投ぜしめたる石灰若しくは油類がこの恐るべき結果を生じたるにあらざるやを思ひ、且つ腐魚の發生が他の理由によることを明白に抗辯し得ざりしを以て、遂に心服する能はざる罪状に心服するに至りしなり。されば五兵衞以下の痛恨は固より言ふを須ひず、裁斷の任に當りし藩吏といへども顧みて事件の混沌たるを怪訝に堪へざりしなるべし。天下豈又此くの如き疑獄あらんや。 嘉永五年壬子の秋八月、我が賀州蓮湖(河北潟)の魚族事故なうして死す。人畜鳥類之を食すればまた死す。故に官より湖漁を禁じ、周邊十三ヶ村に米を賜ふ。道路の説に曰く、近年田疇石灰を用ふ、其毒湖に入り漁族を害すと。或は曰く、今年の夏一蟒蛇斃る、其毒湖に入て然りと。或は曰く、近年蓮湖の左岸に柵を植ゑ、以て新田を開く。柵内魚死し、漁夫來てこれに網し、其畦畛を傷る。故に貪賈毒油石灰を流し以て之を防ぐと。衆説紛々孰れか眞なることを知らず。是に於て八月二十八日余須崎村(黒川長安)に到り、棹手清右衞門なる者を倩ひ、小船を泛べ以て湖中を一望するに、舟船往來、遠きものは粟粒の如く、近きものは竹葉の如し。實に大洋と異なることなし。則ち湖の廣袤を問ふ。棹手曰く、南北長き所は三里許り、東西廣き所は一里許り。また湖に注ぐ所の大小河川の員數を問ふ。曰く、大河七條小川算なし。また湖水海に注ぐ所の廣狹を問ふ。曰く二十間許り。また湖水深き所幾尋なるを問ふ。曰く五六尋。また下流海に入る所の緩急を問ふ。曰く水流頗る緩なり。且つ今年南風多く、海水漲溢して湖水逆流す。また湖中水色近年の異同を問ふ。曰く湖水腐敗、毎夏索莫西耶鳥(サンシヤウ)と稱する水垢を生ず、今年最も甚し。且つ問ひ且つ答へ、湖の東岸に櫓し行こと一里許りにして、死魚一尾をも見ず。棹手曰く、今日風東よりす、意ふに死魚西岸に在るべし。即ち轉じて西岸に到るに、湖水色藍汁の如く、油氣水面に浮び、死鳧一隻・腐魚數千を見る。日西に傾き、全湖を觀ること能はず。既にして余謂ふに、道路の説誤れり。此の如き大湖にして、人爲また一蟒蛇、豈能く此の大害を爲すことを得んや。蓋し湖水腐敗の致す所なるべし。(下略) 〔黒川良安蓮湖流毒説〕 ○ 享保六年六月に此蓮湖にさる異變ありたるよし、舊記に載たり。其趣は如此。 比日しゞみ貝或は海老・雜魚にて、町方之者悉食傷仕出取沙汰有之候得共、慥成儀は相知不申。しゞみ貝にては、町方之者の内にも食傷氣味之者も有之候。然處當廿六日於御算用場、八田・才田村之者共え右之趣御尋有之處、先比大野・粟崎之潟にて伊勢鯉悉死上り、夥敷浦方之者拾ひこえ物に仕由。其上大野・粟崎潟之水雁・燕・烏・雀等にも當り候哉、夥敷死居候由申上候段、魚荷宿之者共より申聞候旨、魚問屋吉郎兵衞・魚肝煎十兵衞兩人、今廿八日町會所え罷出御達申上候事。 右之通り記載有之、今般之變革と全く同じ趣なり。おもふに此は時氣循環により、ふと湖水に毒氣を含みたるならんか。(前後略) 壬子八月(嘉永五年) 〔森田平次著續々漸得雜記〕