或は曰く、五兵衞は多額の外國産棒砂糖を有したりしが、彼はこれを越後に送りて越の雪と稱する菓子を製造發賣せしめしに、その風味佳良にして好評を得たり。後販路大に擴張するに及び、氷砂糖を以て棒砂糖に代へき。葢し初め五兵衞は外人より得たる砂糖の處置に窮し、故らに之を藩外に出して消費せしにあらざるかと。 又曰く、五兵衞の輸出品は絹類を以て主としたりしものゝ如し。是を以て加賀小松の機業家茶屋九兵衞・茶屋九左衞門の如きは、共に錢屋より十萬兩の融通を得て營業したりしが、疑獄の後忽ち破産し、又越中福光の前田屋は、錢屋より三十萬兩を前借して城端・井波等の産絹を一手に買收し居たりしが、錢屋の沒落に逢うて債務を償はず、爲に一時富豪となるを得たりと。 越前の人佐々木千尋の談に曰く、同國三國港に與平といふ者ありて、初め同港宮腰屋の手代たりしが、資性極めて商機に敏なりしかば、その主家を去りたる後獨力奮鬪して富豪となれり。千尋甞て之を訪ひし時、その家に十數個の時計とエレキトルと稱する電氣治療器とあるを見、如何にして此の如き珍器を藏するやと問ひしに、錢屋が密貿易によりて得たるものを購入せるなりと應へたりと。 或は曰く、五兵衞が竹島に於いて貿易せりと傳へらるゝ頃の事なるべし。彼は一個の無人島を發見せしかば、こゝに植民して外國貿易の根據地たらしめんと欲し、之を錢五島と名づけたりしが、時運未だこの計畫を實行するに至らずして止めりと。 又曰く、明治二十年我が國の輕業師にして濠洲に渡航せるものありしが、タスマニヤに數基の石碑あるを發見せり。青苔面に生じて文字も明らかならざりしが、彼は頗る好事の徒なりしを以て自ら之を掃ひしに、『かしうぜにやりやうち』と記さるゝを認めたりき。後英人之を知りて直に碑を撤去せりと。