錢屋一族裁判の際公事場の留書たりし早川儀三郎の談に曰く、河北潟置毒の爲に數村の漁民は活計の途を失ひしのみならず、藩侯の食膳にも上るべき魚類を有毒ならしめたる五兵衞等の罪状は、決して重大ならざるにあらずといへども、必ずしも死を以て當つべきにあらず。是を以て當局の吏、適當の刑を裁量して藩侯の指揮を請ひしに、治獄尚不完全なりとの理由により侯より却下せらるゝこと數次に及びたるを以て、漸次加重するの止むなきに至りたりき。葢し藩が幕府より何等かの内示を得たるによるものゝ如しと。 或は曰く、當時の家老中川八郎右衞門が自筆の日記中に左の文あり。之によれば彼が外國貿易を試みたる事實稍明瞭なるものあるが如しと。 安政元年三月、別廻前田式部より八ツ時頃來。 一、右は魯西亞船去冬渡來之節、加州より米二萬石毎歳商候旨申聞候儀相見候由、前田久盛よりの沙汰書に相見候帳面相廻。且錢屋五兵衞一件に付、喜太郎永牢にて存命の儀公邊より承、御呼立に相成候ては甚御面倒の筋有之。右に付重て何とか御刑法を被仰付候て可然哉之内状到來。返書に、先達て落着御嚴刑之上、今更死刑などゝ申犧無謂、却て公邊へ響候ても宜かる間敷。御呼立に相成候時は、此方樣にての御刑法は潟一件、右之外之儀相知不申事。御邪魔は有之候とも、右樣之儀有之明白に相分候へば尚更可宜との返事下物相廻也。 叙上の諸説は皆五兵衞が外國貿易を爲せるに非ずやと疑ふ者の引用する所とす。但し從來その貿易を立證せんが爲に傳へられたる説話中、全然誤謬に屬するものも亦無きにあらず。例へば五兵衞の娘りうの子清水九兵衞が明治十九年の頃人に語りたる中に、天保二年五兵衞はその船に米穀を滿載して航行せしに、偶暴風に遇ひ一島に漂着せり。時に正月元旦に當りしを以て船員は餠を製し祝盃を擧げたりしが、その地の氣候極めて温暖なりしを以て皆單衣を着けたりき。この時交易の資として大坂にて兩替せる花降銀一萬兩を齎らしゝが、五兵衞は之によりて毛氈・木綿・繻子・緞子・更紗を購ひ、歸帆の後又大坂にてこれを賣却したることありといへるが如きは、弘化二年喜太郎の持船に乘組める沖船頭次兵衞以下十三人が房州沖に於いて難船し、七ヶ月の後仙臺に歸着したるを誤り傳へたるものにして、その漂流者は五兵衞にもあらず、又航海者が漂流せりとて直に之を以て外圍貿易を實行したる左劵とも爲し得ざるなり。この漂流日記は、今大部分を失ひたるが故に、内容の詳細を知ること能はずといへども、尚序文と凡例とによりてその大體を推考し得べし。 東洋漂流日記序 弘化二つの年九月、宮腰錢屋姓は橘氏、此家亭主并隱居、親子共運強くして近年至て立身有て、身分も重く格式を賜りたる家なり。此家の持船廻船の内一艘、東洋に數月漂流せしが其運よく、異國何方へもよらずして、翌弘化三つの年三月仙臺領の内へ歸帆せし始末、珍らしき咄故爰に愚昧の言の葉を以て記し置而已。 弘化三丙午五月編者水邊逸民河合篤治 凡例 一、津輕青森より北海を登る心懸の次第。 二、同ナヤウロクより走戻りの次第。 三、同青森にて再東海より江戸へ登ることの次第。 四、松前箱舘にて汐路案内の者を乘せ出帆の次第。 五、南部濱より仙臺灘・常州灘より下總犬吠ヶ端廻り、安房崎近にて大雨風となり吹流されたる次第。 六、東洋に數月漂流の次第。 七、翌年三月假道具にて歸帆の次第。