五兵衞は又信義に厚き人なりき。嘗て語りて曰く、非常の業を起す者は非常の困難を犯さゞるべからず。我が舊主木屋の如きも、また富豪の名を天下に知らるゝに至りたるは、一たびその災厄に遭遇したる後に在りしなり。而して余は今や資産に於いて木屋に讓る所なしといへども、名聲の彼に如かざる者は未だ奇禍を得しことあらざるに因る。たゞ余に在りては、常に舊主の恩義に報ずべきを思ひ、敢へて之と地位を爭ふを欲せず。是を以て余の商事を營むや、常に木屋の業を妨害せざる範圍に於いてするを念とせりと。 五兵衞は富鉅萬を以て算し、大分限を以て稱せらるゝに至れりといへども、尚その抱負を滿足せしむるに足らざりき。五兵衞その晩年に於いて嘆じて曰く、余の一世を通じて苦心畫策せしもの僅かにこゝに止り、未だ以て偉績を天下に遺し盛名を竹帛に垂るゝに足らざるは、一に人生の短きに因らずんばあらず。世上幾多の人、空しく雄志を懷きて墳塋一抔の土に埋るゝもの、皆余と同嘆なるべきのみと。彼の高齡にしてこの言あるもの、亦彼が勇猛果敢の念遂に止むの期なかりしを知るべきなり。