五兵衞の長子喜太郎は俳號を霞堤と稱し、晩年には荷汀に改め、別に拾翠園・青翠園・翠園・晩翠舍又は芙蕖舘ともいへり。喜太郎の俳句は一門中最も勝れ、當時の俳客が多く錢屋を訪ひたるは、この霞堤ありしが爲にして、龜巣が風流に向かひしも亦霞堤の感化を受けたるによると言はる。元治元年五月廿九日歿。享年五十六。喜太郎の弟佐八郎は素由又は曾由と號し、間々作句あり。慶應三年六月廿三日歿。享年不詳。殊に一女ちかに至りては春湖・柳年を師として略その堂に入り、後病を得て山中温泉に在るや、日夕吟嘯を樂とせり。文久二年六月廿九日歿。享年二十三。一門の風騷此くの如く盛なるものありしが、啻り要藏はその趣味を異にし、宮腰の謠曲家番附に於いて大關の地位を占め、手跡亦甚だ妙なりしといへども、俳諧は之を好まざりしが如く、路堂の號を以て稀にその作品を見るのみ。 蓮翹や日にうら表なしに咲霞堤 よい程になつては燃る蚊やりかな同 散たのでさかり見えけり萩の花同 初冬を聞く氣になるや雨の音同 窮屈な行儀つくつてきそ初素由 仰向てたゝずむ鶴やかすむ畑同 無事いうて菊に別るゝ旦かな同 しぐれ來る夜や低う聞く松の音(孤松時雨)同 晨明の田にし拾ひやかきつばた路堂 紅梅や磯の家にも鈴の音千賀女 せつかれて温泉に入る頃や時鳥同 飛でからさだまる聲や庭の虫同 入相や時雨にかはる温泉の香同