喜太郎が入獄の後、その女ちかの哀願によりて放免せられしことは先に言へる如くなるが、資産は關所の處分に附せられしに拘らず、或は隱匿せられ、或は債務者の辨濟するものありて餘剩頗る多く、その額凡そ三十萬兩に上ると推定せられ、優に地方の豪家たるに愧ぢざりき。然りといへどもかの一大疑獄によりて精神上に與へられたる苦痛は遂に之を癒す能はず、憂欝の極病を發し、元治元年越中城端の善徳寺に詣でんとする途次、その乘輿中に自刄し、佐八郎も慶應二年相尋いで死せり。初め喜太郎一男兒を擧げしが、土俗四十二の二つ兒として忌憚するものなりしを以て、之を余計松と名づけたりき。余計松長じて放縱産を治めず、好みて投機の事業を試み、失敗に失敗を重ね、青森縣に移りて終れり。