藩治以後二百數十年に亙りて、前田氏の能く鉅封を保ち得たる所以は、一意幕府に恭順なるを旨とし、内治外交共に温和平靜の手段を選びしに因る。是を以てその弊の趨く所は、士氣安逸に流れて繁激を避け、退嬰を事として進取の志を失ふに至れり。これに加ふるに加賀藩の方針として、嚴に士人の他藩士と交るを禁ぜしが故に、多くは天下の形勢に明らかなること能はず。特に嘉永以降幕府の基礎漸く動搖せる機微の如きは、彼等の概ね窺ひ知らざりし所にして、江戸城の外觀尚儼然たるを見、將軍の威力舊に異ならずと思惟し、佐幕を以て最も安全にして且つ正當なる藩是なりとしたるが爲に、王政維新の風雲に乘じて活躍するの機會を逸したりしもの、實に遺憾に堪へずといふべし。唯この際千秋順之助・不破富太郎以下の志士ありて、藩侯の世子慶寧を輔翼し、謀を長藩と通じて皇室の爲に微力を致さんとしたるは、藩末の歴史に光彩あらしめたるのみならず、亦以て我が國勤王史の一齣を占むべきものなりとす。