初め米艦の來朝し、幕府の和親條約を締結するや、朝廷は之に滿足せずとして、主權と執權との間に漸く扞格を生じたりしが、この際加賀藩の士人にして空漠なる憂國の至誠を抱くものなきにあらざりしも、藩論を勤王に導かざるべからざるを説くものは殆ど絶無なりき。然るに萬延元年、國老横山氏の臣たりし野口斧吉が昌平黌に學びて歸藩するに及び、同家の家宰平出甚左衞門に建議し、子弟の爲に一の學問所を設けしめ、國史新論・回天詩史・瀛環志略等の書を講じ、一は勤王の志を鼓舞し、一は内外の形勢に通曉せしめんことを企て、與力福岡惚助等亦外に在りて斧吉を助けたりしかば、こゝに初めて皇室中心主義の運動を見るに至りたりき。然るに當時藩校明倫堂に在りては、專ら舊制によりて經書を講ずるを主としたりしを以て、横山氏學問所の學規を以て異端なりとなし、大に之を排斥せり。 文久元年金澤の市人淺野屋佐平京都に至る。佐平は郵便を業とする者なりしが、固より時事に志ありしを以て、海内の形勢に關して注意を怠らず、同二年薩摩の島津久光が上洛せんとする風聞あるに及び、屢京攝の間を往返して實否を探り、録して之を藩に告げたりき。尋いで京師に遊學せる醫師小川幸三・駒井躋庵等亦陸續時事を報道する所ありしに、藩吏初めて輦下の騷然たるに驚けりといふ。既にして久光は勅使大原重徳を奉じて東下し、長藩の毛利定廣亦朝廷に周旋する所ありしかば、京師の政界は全く二藩の活躍舞臺たるが如き觀あり。海内第一を以て自任する加賀藩がこの際何等の運動を試みざるは、世人の齊しく怪訝に堪へずとする所なりき。且つ是より先將軍家茂は、六月久世大和守廣周の議によりて將に上洛せんとするの意あることを發表したりしが故に、藩侯齊泰も亦隨從せんことを豫期せしが、幾くもなく廣周は閣老を免ぜられ、之に代れる板倉周防守勝靜は反對の意見を有して將軍の上洛遷延行はれず。加賀藩の時局に處する方策も之と共に何等の進捗を見る能はざりき。