然るに藩は小川幸三の上書を以て事の重大なるものとなし、翌二十六日郡奉行内藤十兵衞は幸三が金澤の旅舘より出行するを禁じ、その郷里なる石川郡鶴來村の小吏に命じて監視せしめしが、二十九日に至りて之を解けり。既にして閏八月二日、郡奉行金子篤太郎命を傳へて幸三を城中に召したりき。幸三乃ちその日巳刻を以て城に上りしに、藩侯齊泰は屏風を以て四周を繞らし、近習用三人をして席に陪せしめ、幸三が曩に上書せる條々に就きて諮詢せり。幸三詳かに應答して午刻より申刻に至る。侯之を聞きて善しと稱し、その聲屏風の外に漏れしかば、幸三は感喜して旅舘に歸れり。この月十日、幸三將に鶴來に歸らんとするに臨み、再び書を上りて前言を補ふ。齊泰、幸三の前後献ずる所の策を容れんとし、老臣に命じて幸三の詮を聽かしめき。老臣等曰く、今や將軍京師に朝するの議あり、而して我が侯も亦既に陪從を請へり。今にして幕命を待たずして上京せば嚴譴を如何せん。且つ幸三の人と爲りも亦未だ俄かに信ずべからず。請ふ姑く時機を待たんと。二十一日齋泰又馬廻頭に命じて幸三の言を聽かしむ。馬廻頭は執政等に亞ぐ要職なり。依りて二十三日幸三を召し、組頭十二人列座してその所見を徴し、後又之を文に草して上らしめき。而して幸三は二十八日を以て鶴來に歸りしに、九月二日郡奉行内藤十兵衞は突如幸三を村預けとなし、二十九日更に吏を發して幸三を縳し手錠縮(シマリ)を加へたりき。幸三がこの奇禍を得るに至りしは、初め彼の京師を發せしとき、同志岡千仭幸三の國事に奔走するを稱賛して一詩を贈りしが、その中に『期君三寸舌。降齊七十城。』の句あり。これ書生常套の誇張にして怪しむに足らざるを以て、幸三は人の訪ふ者ある毎に示したりしに、幸三を忌む者之を擧げて彼を間牒なりと讒せしに因ると言はれ、幸三も亦必ず然るべしと信じたるも、事實は全く異にして、執政等が先に齊泰より幸三の説を聞くことを命ぜられし後、郡奉行に命じてその素行を調査せしめしに、奉行は彼を不良の徒となし、九條家の臣島田左近が斬殺せられたる事件にも關係せりとの誤聞を報告したるによるといふ。是より幸三の幽囚せらるゝもの四ヶ月。その述懷に、『皇天照處自分明。何管微身利與名。一片丹心不抛得。誰知日本古狂生。』『大地無容狂酒生。全身動處僅雙晴。丹心求得何爲怨。唯患人間不孝名。』などいへるもの皆この時なり。