その後朝幕の形勢一變し、將軍家茂上洛の事は全く實行せられざるに至りしが、十一月朝廷再び中納言三條實美等を勅使として東下せしめ、勅を將軍に降して速かに攘夷の實を擧ぐべきを命じ給ふに及び、家茂は謹みて叡旨を奉じ、且つ明年將軍上洛の時を期し、諸侯をして悉く闕下に會同せしめんとせり。是に於いて齊泰は、先づ藩士鶴見小十郎を遣はして帝都の事情を探知せしめ、次いで又豐島安三郎・永山平太を派せり。しかも藩は益京師の事情に精通する人材を必要とするに至りしかば、文久三年正月十日特に幸三の罪を赦して定番御歩並に登庸し、祿三十五俵を與へて上洛せしめ、次いで齊泰は二月十一日を以て同じく途に上れり。時に福岡惣助の徒なる瀬尾餘一は、弟米山甚八郎と共に遊學して江戸に在りしが、齊泰の出京せるを聞き急遽西上してその所見を侯に上りしに、藩吏彼等が法規を無規して擅に旅行せりとの故を以て、亦之を藩に送還して謹愼せしめたりき。この際齊泰の上洛せるは、將軍の命によりてその朝覲に會せんとするにありたりしが、恰も英人が生麥事件に對する償金を幕府に要求したるを以て、幕府は爲に釁を開かんことを恐れ、二月二十八日急に諸侯に命じて國に就かしめき。是を以て齊泰は三月二日途に上り、十二日歸藩し、而して幸三も亦之に尾せり。當時藩論漸く朝幕の關係に注意するに至りしかば、永原恒太郎・不破富太郎・廣瀬勘右衞門・青木新三郎・大野木仲三郎・高木守衞・石黒圭三郎・岡野外龜四郎・福岡文平・行山康左衞門等は、皆惣助・幸三・斧吉と相往來して國事を議し、餘一も亦前罪を赦さるゝに及びて之に加り、勤王攘夷の説欝然として旺盛なるに至れり。是の月朝廷警衞の兵を諸藩に徴せしを以て、加賀藩は岡田隼人有鄰に兵士一百を添へて之を派遣したりき。四月京師に在りし鶴見小十郎・豐島安三郎・永山平太の三士藩に送還せられ、各その家に錮せらる。蓋し三士は京師の政情を探る爲高松家に出入したりしが故に、從來二條家と親善なりし藩吏等、三士の行動を以て藩策の機宜を誤らしむるものなりとしたるに因るといふ。爾後三士の幽囚、明治元年の初頭に至るまで凡そ五ヶ年の久しきに及ぶ。