是より先將軍家茂は、三月四日入洛したりしが、京師に於ける政情は急變に急變を重ね複雜に複雜を加へ、四月には孝明天皇男山行幸の事ありしも家茂は之に供奉せずして大失態を暴露し、次いで朝廷に迫られて攘夷の期限を五月十日と定めたりき。かくて家茂は六月九日東歸を許されたるを以て遽かに大坂に下り、軍艦に搭して十六日江戸に入り、即日閣老井上河内守等の連署により、飛書を發して齊泰以下東北の諸侯を招き、翌日又世子慶寧を召し、且つ内旨により將に大に拔擢して要路に置かんとすとの意を漏らせり。是に於いて齊泰・慶寧二人の之に應ずると否とは、加賀藩が朝幕の何れに左袒するかを明白にするものなるを以て、齊泰は事態頗る重大なりとなし、老職以下要路の吏を會して意見を徴せしに、諸臣皆萬全の策を執り、侯は病に託して辭するを可とするも、世子の東行は寧ろ機宜に適したるものなりとし、議殆ど決せんとせり。不破富太郎・大野木仲三郎・永原恒太郎等勤王の士之を聞き慨して曰く、將軍意を京師に得ず東歸して大に諸侯を徴するものは、これその祖宗の遺旨を奉じて東西二分を策せんとするものにあらずや。然るに今世子にして東行せば即ち逆に黨するものといふべく、若し既に至りてその求むる所に從はずんば直に要せられて質とせらるべし。されば斷じて幕府の命に應ずべきにあらずと。因りて富太郎・恒太郎は上書しで論爭し、また慶寧の近臣大野木源藏・堀四郎左衞門・久徳傳兵衞に勸めて諫止せしめんとせり。齋泰乃ち慶寧の侍讀千秋順之助に諮詢せしに、順之助も亦所見を述べて順逆を審かにし名分を明らかにして大藩たるの面目を維持すべしとし、慶寧の東行を不可とせり。當時藩の老臣本多播摩守政均は、先に姉小路公知が賊の爲に要殺せられたるを以て、天皇の安を奉伺せんが爲派遣せられて京師に在りしが、藩議將に慶寧をして幕命に應ぜしめんとすと聞き、その朝譴を得んことを慮り、關白鷹司政通・左大臣二條齊敬に謀りしに、二卿も亦慶寧の東行を不可とし、特に齊敬は内旨を政均に傳へて齊泰に懇諭する所ありき。これを以て藩議遂に反覆し、朝幕の間に處して調停を圖るの策を取るに決し、藩侯父子共に徴命を辭せり。