是の月十七日傳奏命を傳へて加賀藩をして禁廷南門の警衞に當らしめ、二十五日又勅して齊泰を召し給ひしも、齊泰は疾あるを以て辭し、青山將監悳次を京師に遣りて書を上らしめき。その略に曰く、曩者朝廷屢書を幕府に下して攘夷の擧を促し、而して幕府が常にその期を遷延せしめしは臣の窃かに嘆ずる所なり。臣以爲く、攘夷の基は海内の人心を和せしむるに在りと。然るに方今政令一途に出でざるを以て、人心の方嚮も亦一なる能はず。臣之が爲に日夜痛心す。願はくは朝廷武事を擧げて幕府に委し、責むるに成功を以てし給はゞ、臣不敏なりと雖も幕府を戒飭し、その行動を刺激して聖旨に添はしめんことを欲すと。これ即ち藩議の所謂調停の策に出でんとせしに因る。次いで七月二十五日、傳奏命じて加賀藩の宿衞を中立賣門に轉ぜしめき。 當時藩士中に少數の勤王論者ありたることは前述の如くなるが、他の大多數は固より佐幕を是とする者にして、その言ふ所は、三世利常の家光に服從を約してより藩と幕府とは直接に君臣の誼あるが故に、今に至りて決してこれを易ふべからず。朝廷との關係に至りては寧ろ間接にして、親疎の程度頗る異なりといふにありき。是に於いて不破富太郎等の勤王論者は、世子慶寧が英明の資を有するを以て之を輔導して大成せしめ、延きて一藩の方針を確立するを得策知りとし、乃ち東西の風聞を得る毎に必ず一通を寫し、久徳傳兵衞を介して之を上れり。而して慶寧の意は、固より幕府の措置に滿足せざりしといへども、その地位未だ藩政に關與するを得ざりしが故に自ら制して之を發表せざりき。