既にして長藩は、幕府が優柔にして攘夷を斷行せざるを以て、親征の典を擧げ給はんことを朝廷に請ひしに、天皇は先づ大利に行幸したる後決行し給はんとし、八月十五日後齊泰を召し給ひしも、齊泰は之を辭し奉れり。然るに薩藩は長藩の過激なるを喜ばず、急に朝議を覆し、十八日長藩の堺町門の宿衞を解きその藩士の入京を停めしかば、都下頗る騷然たりき。因りて朝廷は事變の生ぜんことを慮り、諸藩の兵を召して警戒に當らしめしに、加賀藩の隊長岡田隼人は部下を率ゐて禁闕に宿衞し、二十四日京師の戒嚴を解かるゝに及びて藩邸に歸れり。 是の月浪士の輩飛騨に聚合して事を謀らんとすと傳ふる者あり。藩乃ち飛騨が我が領境と相接するを以て、九月福岡惣助に命じて之を探らしめき。惣助は飛騨に入りしも全くその事實を認めざりしかば、直に海内の形勢を視察せんと欲し、姓を變して日下といひ、潛行して美濃に出で、大垣藩の老臣小原仁兵衞を訪ひ、又その書を得て京師に入り、江馬天江等の家に匿れ、本山七郎・宮部鼎等の志士と會し、彼等の紹介によりて有栖川宮熾仁親王に内謁し、詳かに政界の情實を得て歸藩せり。然るに惣助の爲しゝ所忽ち露はれ、藩の許可を得ずして擅に行動したりとの罪により、その家に幽閉せられたりき。惣助乃ち見聞を記し、從弟福岡文平によりて家老青山將監悳次に致し、將監は又慶寧に上れり。是に因りて慶寧は長藩の所爲を正義なりと考へ、將來之と策應して大に王事に盡瘁する所あらんと決意するに至れり。 九月朔日藩大音帶刀厚義を京師に遣して輦下を守らしめしに、十二日傳奏は帶刀を召して兵を河内に出さしめき。是より先浪士松本謙三郎等大和の五條に據りて叛せしが、未だ縳に就かざるを以てこの命ありしなり。帶刀則ち兵六百を率ゐて丹南郡平尾邑に屯し、十九日賊平ぐに及びて京師に還れり。 是の月朝廷再び齊泰を召し給ひ、且つ齊泰にして若し疾みて入朝する能はずんば、慶寧をして代らしめんことを命じ給ひき。葢し加賀藩が諸侯の巨擘に居るを以て、之に諭して方向を決せしめ、以て朝廷の政策遂行に力を致さしめんと欲したるなり。慶寧命を得て、國事に奔走するの好機至れりとなし、奮つて之に應ぜんとしたりしが、要路守舊の藩吏は幕府の譴責を得んことを慮り、百方沮止せんと企てたりき。勤王の同志之を知り大に論爭して曰く、今や實に國家危急の秋なり。假令朝命を蒙らざるも、身侯伯に列して皇室の藩屏に任ずる者、宜しく國難に赴きて全力を盡くすべし。况や既に勅旨を忝くし、世子もまた自ら上洛の意ありとせば、藩臣たるもの同心協力してその英志を就さしめざるべからず。然るに今却りて沮止せんとする者あるは果して何の意ぞやと。因りて或は直に書を上り、或は近臣に遊説し、以て目的の貫徹を期したりき。