此の時に當り薩藩は幕府を佐けて攘夷を決行せしめんとするを主義とせしを以て、幕府の京師に於ける信望漸く恢復し、朝廷との關係また緩和するに至りしかば、藩に於いても佐幕論者の氣焰大に擧りたると共に、勤王論者は勢力を失ひ、初め志を同じくしたりしものも往々ににしてその意見を變じ、然らざるものも避けて協議に加らざるの徒を出しゝが、唯不破富太郎・永原恒太郎・福岡惣助・小川幸三・青木新三郎・高木守衞・野口斧吉のみは始終一貫して事を共にし、福岡文平も亦時々之に與り、廣瀬勘右衞門は後に變節せしも當時は尚熱心なる同謀の一人とし、而して大野木仲三郎・岡野外龜四郎等は別に一團を爲せり。彼等相議して曰く、藩論を導きて世子上京の事を決せしむるは之を先輩富太郎・恒太郎等に一任し、而して奸邪を屠る如きは壯年の士專ら之に當らんと。因りて奔走畫策至らざる所なかりしに、久徳傳兵衞・大野木源藏・堀四郎左衞門等も亦同志を輔けて屢献言するに至りしのみならず、慶寧の侍讀千秋順之助は側近に在りて勸奬に努めしかば、慶寧の志遂に決し、翌元治元年二月二十四日將に藩侯代理として上京せんとすとの令を發し、奧村伊豫守榮通に供奉の長たるべきを命ぜり。