慶寧は四月二十八日を以て金澤を發し、五月十日京師に入り本陣を建仁寺に置けり。初め慶寧の發するに臨み之を在京の將軍家茂に報ぜしに、幕府は爲に長藩の勢力を熾ならしめんことを恐れ、慶寧が尚世子の地位に在るを似て出京の必要なしとして沮止せんとせしに、慶寧は既に朝命を受けたるが故に幕府の容喙を許さずとなし、大野木源藏に命じ閣老に謁して抗辯せしめ、遂に西上を強行したりき。因りて幕府は、自らその威嚴を失はんことを慮りて前議を改め、十二日稻葉美濃守正邦を建仁寺に遣はし、七日既に退京したる將軍に代りて慶寧の禁闕を守衞すべきを命じ、以て僅かに體面を糊塗したりき。時に慶寧途より微恙に罹り、入京の後尚癒えざりしが疾を力めて命を受け、且つ使者に對へて、守護の職は外舶襲來の難に備へんとするものなるが故に、幕府にして先づ攘夷を決行するに非ずんばその職務を遂行する能はずといへり。加賀藩が幕府の意に逆ひて事を爲せるもの前後此くの如き例なく、而して佐幕黨の之を悦ばざりしは勿論なり。翌十三日稻葉正邦又幕旨を奉じ、慶寧を二條城に招きしを以て、家老山崎庄兵衞範正をして代り往かしめしに、正邦は齊泰を正三位に叙するの命を傳へたりき。幕府が連りに加賀藩に恩を加へて尊攘論を緩和せしめんと努めたるの跡、極めて昭々たるものあるを見るべし。 松平筑前守(慶寧) 京師御警衞筋、猶此上御手厚被成進度思召(家茂)候處、從御所御暇被仰出、去七日御發駕被遊候に付而は、其方儀家柄、殊に御近親之儀にも有之候間、厚思召も被爲在候而、御發途以後御警衞向被仰付候間、一際奮發勉勵いたし、御安心被遊候樣、厚可被相心得旨御沙汰候。 別紙之趣、御直にも可被仰含之處、去七日當地御發駕被遊候間、其方京著いたし候はゞ、年寄共御使にて可被仰遣旨、兼而被仰付置候條、御趣意之趣厚く被相心得、御警衞嚴重相立候樣可被致候。 〔舊金澤藩事蹟文書類纂〕 ○ 加賀中納言(齊泰) 國事格別盡力有之候に付、正三位御推叙之儀豫て御所へ被仰立置候處、被仰立之通被宣下候旨被仰出候に付、正三位被仰付候。 中納言位階昇進之儀、御所へ被仰立置候處、去七日御下坂に付、筑前守(慶寧)京著之上相達候樣被仰付置候條、此段も相達候。右之趣國許へ可被申越候事。 〔前田家文書〕