次いで慶寧は疾稍快かりしを以て、五月二十日參朝して天顏に咫尺し天盃を賜はるの光榮を荷へり。この日慶寧は鷹司政凞を訪ひ時事を論ぜしに、政凞は大にその器局あるを稱し、諸藩の志士傳へ聞きて亦頗る望を屬せり。この時慶寧に隨ひたる不破富太郎・青木新三郎・大野木仲三郎は、長藩の士小島彌十郎[後椿孝之]と相往來して國事を語り、駒井躋庵と淺野屋佐平とはその間に立ちて周旋せしかば、藩吏之を偵知して幕府の譴を得んことを恐れ、窃かに三士を藩に歸らしめんことを議せり。慶寧之を聞き大野木源藏を介して三士に諭し、努めてその行動を韜晦せしめたりといへども、三士は加賀藩の勤王黨を代表するの地位に在りしを以て交遊日に知り、就中長藩の桂小五郎[後木戸孝允]・吉田稔丸・杉山松齋等と往復し、彼等の所論を慶寧に傳へて益正義を鼓吹せんことを謀り、而して家老松平大貳・近臣堀四郎左衞門・侍讀千秋順之助等皆之を助けたりき。是に因りて慶寧の志益堅く、六月五日遂に自ら閣老水野和泉守忠精に至りて建白書を呈し、以て鎖港の決行を幕吏に促せり。その書に曰く、頃者處士横議し、往々天下の法憲を犯し、敢へて殺戮を擅にするが如きは、その罪決して小ならずといへども、彼等多くは憂國の徒にして正義を重んじ、未だ曾て無辜を害せしを聞かず。將軍にして尊王攘夷の實績を擧げなば自ら鎭靜すべきなり。且つ方今の急務は先づ横濱を鎖すに在りといへども、若し之が爲に賠償を外夷に與ふるが如きことあらば益人心を動搖せしめ、初より鎖さゞるの勝れるに如かざるべし。故に鎖港に從はんとするには、必ず海内一致して彼等の勦滅を期すべく、將軍も亦嚮に朝命を奉じて攘夷を海内に令せしを以て、決して信を失ふことなからんを要す。長藩の處分に至りては天下人心の向背に關すること至大にして、之に關する藩の意見は既に建白せし所なり。敢へて請ふ、その宜しきを得しめよと。蓋し慶寧は曩に齊泰に請ひ、幕府に上書して征長の議に反對したりといへども、その書父侯の名を以てしたるのみならず、老臣の意見を參酌して數々刪正を加へ、殊に攘夷の事に就いては未だ慶寧の言はんと欲する所を盡くし得ざりしものあるに似たり。之を以て再びその意を敷陳せるなり。