初め長藩士の大坂に集合するや、幕府は加賀藩をして伏見の警衞に從はしめんとせしに、加賀藩の之を辭したること前に言へるが如し。その後加賀藩は更めて堺町門を守衞せしが、二十八日再び伏見に差遣せらるゝの命を得たるを以て重ねて之を辭し、翌二十九日千本通附近に在りて松江・膳所諸藩の危急に應援することゝなれり。幕府が此くの如く強ひて加賀藩をして伏見の要衝に當らしめんとせしは、長藩に對して同盟相對峙せしむるの苦肉の計に出でたるものなりしが、藩は家老山崎庄兵衞を遣はして閣老稻葉正邦に交渉せしめ、加賀藩が元來將軍より禁闕の警衞を委託せられたるものなることを主張し、且つその一部隊を分かつときは、慶寧の左右に侍するものを餘さゞるべき所以を述べて之を謝絶したりしなり。 松平筑前守(慶寧) 長州人多數伏見表え屯集、不穩形勢之趣に付、禁闕御守衞之方は聊人數殘置、早々伏見表え出張、同所御警衞嚴重相心得候樣、御沙汰候事。 六月廿八日(元治元年) 〔本藩歴譜書繼留〕