是より先長藩はその請ふ所許されざるを以て、將に兵を動かして趣旨の徹底を謀らんと企てしかば、不破富太郎・大野木仲三郎等もこれを賛し、因幡・對馬兩藩と協力して長藩を助け、薩摩・會津・桑名諸藩を挾撃せんと謀れり。長藩乃ち富太郎等に囑して曰く、戰端一たび開く時は鸞輿を洛外に奉ずるの要あるを豫期せざるべからざるも、これを移し奉るべき地なきに苦慮せしが、幸にして加賀藩には江州今津の所領あるを以て、願はくは先づかの地に軍を退け、鳳輦の至るあらば迎へて之を守護せらるべく、又若し戰状我に不利にして援軍を貴藩に求めば敢へて一臂の力を假すを吝む勿れと。富太郎等之を諾し、密かに慶寧に告げてその許可を得たり。是に於いて公然提議して曰く、曩に加賀藩の幕府に請ひし所皆容れられず、却りてその保護せんと欲するものを防禦せしめんとす。今にして猶京師に止らば、勢遂に我が邪とする者を輔け、正とする者を抑へざるを得ず。これ豈加賀藩の堪ふる所ならんや。且つ今世子の病重くして久しく居る能はざるが故に、別に禁闕守衞の任に當る者を留めて一たび軍を退くるに如かざるなりと。松平大貳・堀四郎左衞門・千秋順之助等亦之を是なりとし、將に旅程に上らんとせり。 時に慶寧は、その説幕府の用ふる所とならず、從行の士亦多く命を藩の老臣に受け、常に慶寧の耳目を壅塞せるを以て快々として樂しまず、宿痾爲に頗る重きを加へたりき。老臣奧村伊豫守榮通慶寧に謂つて曰く、世子の長藩の爲に斡旋せしこと既に至らざるなし。思ふに長藩過激の徒、之を懇諭するも必ず命に從はざるべし。如かず斷然その周旋を廢し、今より以往專ら禁闕守衞の任を盡くさんにはと。然るに慶寧は、闕下を護るの道は即ち長藩の保護を全くするにあることを斷言し、榮通の議を卻けて用ひざりき。榮通乃ち二十九日書を馳せて齊泰に報じて曰く、長藩の士既に朝暮に抗して京畿に迫れり。余を以て時局を見るに、世子が長藩の爲に周旋するもの甚だ理に適へりといへども、遂に目的を達するの期なかるべきを以て、今は即ち斷然之と絶ち、朝命を奉じて藩屏の任を盡くすを策の得たるものなりとす。然るに世子の侍臣等、慷慨の餘尚初志を貫徹せんと欲し、屢世子に勸むる所あるを以て世子は之に迷ひ、頃者病に罹れるを理由とし、禁闕警衞の士を留めて自ら國に就かんとせり。余以爲く、現今輦下騷擾の際、假令病むといへども急に去るべからず。然るに世子の侍臣は之を不可とするものゝ如し。余深憂に堪へず、敢へて侯の指揮を請ふと。齊泰榮通の言を是なりとし、七月五日書を以てその勞を慰め、託するに慶寧を輔佐して禁闕を警衞するの任を以てし、別に榮通をして在京の諸臣に諭す所あらしめき。