これより先慶寧は、長藩匡救の事遂に成らず、危機目睫の間に迫りしを以て、豫定の計畫に從ひ、七月十八日京師を發せんと欲したりしも、老臣等爭ひてこれを諫止せしかば未だ途に上ること能はざりしが、十九日申刻の後遂に建仁寺を出で、山崎庄兵衞・松平大貳以下を武裝せしめて非常の變に備へ、江州大津に至りて宿營せり。この日慶寧の將に出發せんとせし時、長藩の士小島彌十郎は敗走し來り、有栖川宮の使者なりと僞りて我が軍に投ぜり。時に建仁寺の營中騷然として慶寧の指揮を待つ隙なかりしかば、大野木仲三郎・青木新三郎相議して、慶寧の命と稱し、彌十郎を禁闕守衞の士品川左門の陣に潛匿せしめき。左門その兵寡くして發覺せんことを恐れ、津田玄蕃に謀りて彼が保護を託せり。戰終るの後左門、彌十郎に言ひて曰く、事のこゝに至れるもの實に遺憾とすべし。然れども我が藩の先に微力を盡くせるは卿の知る所、願はくは國に歸るの後これを毛利侯に告げよ。これ兩藩の好を將來に維ぐ所以なればなりと。乃ち夜に乘じ、兵士を附して郊外に護送せしめしに、彌十郎は深く厚意を謝して去れり。 初め不破富太郎等の慶寧に從ひて京師に赴くや、同志の金澤に在る者より藩情を得んと欲したりき。然るに福岡文平は讒陷を恐れて深く自重し、僅かに一たび富太郎に書を致したるに止り、久徳徳兵衞も亦一再に過ぎざりき。唯小川幸三・高木守衞・野口斧吉の三人は、病床にありたる廣瀬勘右衞門の家に集會して毎便書信を發し、富太郎等も必ず之に應へて意見を交換せり。既にして勘右衞門の病漸く重かりしのみならず、族人の爲に禍福を諭されて相遠ざかるの意ありしを以て、同志は乃ち之と斷てり。同志又富太郎等が何等爲す所なきを見、その因循姑息なるを難詰す。富太郎後書して曰く、此の行世子の重患に遇ひしは實に我が徒の不幸なり。然れども吾輩將に死を賭して事に當らんとするを以て、願はくは時機を待てと。尋いで又信あり曰く、京師中外の形勢大に切迫し、これより後再び書を裁するの隙なからんとす。不日吾輩の爲す所を見てその畫策の跡を知れと。是を以て同志皆鶴首して快報の到るを待ちしが、七月二十二日慶寧の將に退京せんとすることを傳へられ、その甚だ意外なるに驚けり。 一、今曉七半時(七月廿二日)京師より御飛脚著、御用有候間早速可罷出旨被仰出候段、當番御近習衆より申來、早々出席。 一、當十九日曉、長州勢京師へ押入、所々放火、御固之御人數と及戰爭、不容易形勢。筑前守(慶寧)其以來御所勞之處、爾々不被遊、御下知も被遊兼候に付、御暇御願に而御發駕之事に御治定之旨申來。 〔公私日記〕