時に藩廳に於いても議論大に沸騰せしが、藩吏皆同志の非行を論じ、この機に乘じて悉く彼等を芟除せんことを主張するもの多く、甚だしきは公然慶寧の廢嫡を説く者すらありき。野口斧吉乃ち高木守衞と議し、足輕中村銀次郎等二人に書を託し、潛かに國境を出でゝ之を不破富太郎に致さしむ。その書に曰く、今日の事思ふに止むを得ざる事情ありしに因るなるべしといへども、保守の吏今や同志を一掃せんと企つるものゝ如し。吾輩の奇禍を得るは固より辭せざる所なるが、勢ひ世子を廢除するに至りては決して忍ぶべからず。兄等今にして策を樹てば尚匡救の途あるべし。否らざれば悔ゆとも及ばざるに至らんと。後銀次郎等富太郎に會して之を手交す。富太郎答へて曰く、諸君の説く所は傾聽すべし。然れども退軍の事素より深旨あり、今日に至りて如何ともすべからず。當に面晤して鄙意を盡くすべしと。 慶寧退京の報藩に達したる日、藩侯齊泰は急に長大隅守連恭に命じ、上洛して聖安を奉伺し、禁裏を守護せしめき。因りて連恭は、即夜その弟雅樂介連賢(後九郎左衞門成連)及び家士五百四十五人を率ゐて發せり。横山外記隆淑も亦別に齊泰の命を奉じ、慶寧を途に要して再び入洛せしむるの任務を帶びて出發す。二十五日連恭の軍越前府中に至る。時に炎暑燬くが如く、士卒衆多にして行旅意の如くならず。因りて連賢以下をして驛路敦賀を經て進ましめ、連恭は間道より急行し、廿七日海津に至り、昨日着の横山隆淑と共に慶寧の本陣に就きて齊泰の命を傳へたりき。曰く慶寧が事變に臨みて退軍したるは、啻に禁闕守衞の重責を盡くさゞるものなるのみならず、難を避けて易に就くの譏を免れず。實に武門の一大瑕瑾たるを以て、速かに再び入京してその任に服すべしと。蓋し齋泰は慶寧の意のある所を知らざるにあらざりしも、一は藩論の囂々を制すること能はざると、一は朝暮の譴責を得んことを顧慮したるによるなり。二十八日齊泰又書を裁して奧村榮通に與へ、慶寧が退京の際能く機宜に處して禁廷を守衞せる功を賞し、自今益奮勵努力して忠誠を致すべきを告ぐ。而して連恭は二十八日海津を發し、八月朔日入京して建仁寺に宿し、七日參内して齋泰に代り天機を奉伺し、八日前田氏の姻戚たる久我・鷹司兩家及び會津侯を訪ひて齊泰の寄託を傳ふる所あり。次いで十一日榮通は部下を率ゐて京師を發せしを以て、連恭之に代りて九門を警めたりき。 長大隅守(連恭) 京都向御變事に付、中納言(齊泰)樣急速御上京も被遊度思召に候得共、其以來御病氣に被爲在候に付、不被爲能其儀候。依而御自分儀、御伺天機且御守衞旁、組共上京被仰付候。若主上御立退に候得者、御幸先え罷越御守護可致旨被仰付候事。 七月廿二日(元治元年) 〔文慶雜録〕 ○