八月朔日齊泰は書を關白二條齊敬に上りて藩の體度を明らかにせり。曰く、前月十九日長藩の徒干戈を輦下に動かしたりとの報、二十二日を以て藩に至れり。齊泰恐懼直に禁闕に赴かんと欲せりといへども、偶病蓐に在りしを以て即日長連恭に代りて入朝せんことを命ぜり。次いで二十四日信また到り、慶寧の病大に漸み殆ど人事を辨せざるに至りしを以て、左右の者相謀り將士を留めて京師を守らしめ、慶寧を扶けて退きたることを告げたりき。思ふに慶寧が京師守衞の重任を奉じ、當に身を致すべき事變に際し疾を以てその地を去りしは、實に武門の途に背き臣下の名を忘れたるものと言はざるべからず。是を以て急使を派し、慶寧を途に要して軫を京師に回すべきを命ぜり。然るに慶寧の疾益篤く既に海津に次せるを知り、復老臣を遣りて慶寧及び左右を詰責せり。這次慶寧の擧は實に此の如き事情に出でたりといへども、その結果を以て見れば長藩と結托したる嫌疑を免るゝこと能はず。されば齊泰の罪を闕下に謝せざるべからざるは勿論なるも、事頗る急なるが故に先づ書を裁してこれを殿下の左右に布く。冀はくは殿下齊泰の苦衷を憐み、その異心なきを諒察せられんことをと。次いで五日、齊泰は在京の幕吏に對し謝罪の爲上京の許可を請ひ、且つ若しその請の許さるゝときは宜しく速かに途に就くを欲すといへども、慶寧扈從の輩の刑律を正すにあらずんば朝廷に謝するの辭なきが故に、悉く彼等を黜罰したる後に於いてせんといへり。幕吏乃ち十一日を以て之を允せり。然るに江戸の幕吏は前の許可を改め、二十二日齊泰を促がして先づ關東に觀せしめ、その京師に朝するは江戸に至りたる後に於いてすべきを以てせり。かくて齊泰が幕府の命に從ひて金澤を發したるは翌慶應元年二月廿八日に在りしを以て、その上洛は同年閏五月二日に遷延せざるを得ざりき。