飜つて海津に於ける事情を見るに、この時大野木仲三郎も亦隨行したりしが、仲三郎は慶寧をして今日の窮境に陷らしめたるもの、一に側用人山森權太郎の罪なりとなし、則ち權太郎を訪ひて曰く、思ふに世子をしてその欲する所に從ひて速かに退京せしめば、此の如き咎を得ることあらざりしなり。然るに卿等左右に在りて姑息の意見を固執し、世子を掣肘して就國の期を遷延せしめたるを以て、その出發は長藩の侵入と日を同じくし、遂に彼と結托したる嫌疑を避くる能はざるに至れり。故を以て卿宜しく藩に歸りて事由を明らかにし、以て藩侯の赫怒を解くに勉めざるべからずと。權太郎乃ち唯々としてこれに從ひしかば、慶寧は横山外記・千秋順之助をして同じく往かしめ、仲三郎も自ら戮力せんと欲して行を共にせり。時に歩士横目行山康左衞門は、亦事のこゝに至りしを以て權太郎の遲疑怯懦によるとなし、七月二十七日その歸藩の途に就くを待ちて要撃せんと企てたりしが、幸にして密告する者ありしに因り、權太郎は間道を取りて危難を免るゝことを得たり。 この難局に當りて、藩侯齊泰の苦心は實に慘澹たるものありしが、今や慶寧をして再び上洛せしむる如きは、年壯氣鋭なる慶寧の到底肯んぜざる所なるべく、假令強ひてこれを還らしむるも、加賀藩の面目を維持するに於いて何等の利益なきを以て、潛心熟慮の結果、慶寧に謹愼を命じて國に就くを許し、從臣の主なるものを自刄せしめて責任を負はしめ、然る後自ら江戸に赴きて陳謝すべしとなし、七月二十七日更に前田土佐守直信・不破彦三爲儀を遣はして命を傳へしめき。直信の越前に入るや、恰も山森權太郎等の歸るに遇ふ。依りて侯の意慶寧の歸藩を許すにあることを告げ、權太郎等をして先づ海津に還りて之を報ぜしめたりき。是を以て大野木仲三郎は獨袂を別ちて金澤に入れり。