小川幸三・石黒圭三郎・谷村直の三人は、金澤を發したる後、海津に至りて青木新三郎等と宿舍を共にしたりしが、大野木源藏の復命を聞くに及び、慶寧の亟かに歸藩し得ざるべきを察し、先づ歸路に就きて越前木芽峠に至りしに、山森權太郎等の再び海津に向かはんとするに會せり。是より先幸三等の海津に在るや、薩摩・越前二藩が慶寧を追撃せんとすとの風聞を得たりしを以て、幸三等は府中に留りて暫く密偵に從ひたりき。然るにこの時藩は幸三等三人を縳するに決したるを以て捕卒を派遣したりしが、彼等の府中に達するに及び幸三等がこの地に留れるを知り、先づ府中の吏に牒して助力を求め、幸三等の旅舘を圍みたる後藩侯の命を傳へたりしに、幸三等敢へて抗せず、檻輿に乘じて金澤に護送せられき。藩乃ち幸三と圭三郎とを各その家に錮し、直を公事場の獄に繋ぎしが、後幸三も亦公事場に移されたり。 是より先山森權太郎は府中に於いて前田直信に會したりしを以て、先づ海津に急行して直信より聞く所を報じ、八月八日直信も亦來りて齊泰の命を慶寧に傳へ、九日別に内旨を家老松子大貳に致せり。當時海津に在りては、藩議慶寧の退京したる事情を諒とせず、將に之を追窮譴責する所あらんとすと聞き、從行の諸臣皆憤慨して止まず、或は紛擾を生ずるの虞ありき。是を以て慶寧は、八月三日先づ諭旨を下して衆心を鎭撫せんとしたりしが、直信の海津に來り謹愼の命を傳へたる後に於いて、亦第二の諭告を發せしめたりき。 今度京都より發足(慶寧)之儀は無據次第に而、當譯迄罷越候處、段々從御國元被仰越候儀、何供御尤至極之儀、臣子之道に而無彼是奉從事は勿論に候。然處物議種々申立候哉にも承り、理非は兎も角、先以中納言(齊泰)樣より被仰出候御事彼是異存申立候而者、此方爲と存候事反而不爲至極に相成、詰りは申譯も無之場合に可至と此上之心配何共申盡し難く、殊に病中彌増配慮至極に而、保養之妨とも相成、反而不忠之至と存候。其上土佐守(前田直信)を以被仰下候御趣意も被爲在候御樣子、萬一如何躰之儀被仰下候共、不論是非臣子之大道に而候間、聊異存箇間敷儀申立無之、幾重にも御下知相守、平穩に相心得候儀國家之御爲に候間、何れ茂此方之存意を厚相心得候儀忠義と存候條、心得違無之樣一統相心得可申事。 八月三日(元治元年) 〔文慶雜録〕 ○ 筑前守(豐寧)樣御儀京都御守衞、御病氣とは乍申、非常之場に臨み御達捨(タツシステ)に而御引取被遊候儀、天朝・幕府え被對被仰譯難相立御次第に候條、御愼被爲在候樣從中納言(齊泰)樣以土佐守被仰遣候。依之御供人一統穩便罷在候樣可被申渡候旨、筑前守樣被仰出候條得其意、組・支配之人々にも可被申渡候事。 八月(元治元年) 〔諸事覺書〕