不破富太郎、諱は友風。文政六年三月十四日を以て生まれ、祖父友亮の後を承けて、祿百五十石を食み、組外(クミハヅレ)組に屬せしが、後に大小將組に轉じ世子慶寧附となれり。富太郎軀幹魁偉にして眼光烱々、最も槍術に達す。これを以て慶寧の槍を學ぶや常に對手を命ぜられしが、毫も假借して勝利を讓るが如きことなかりしかば、慶寧はその剛直を愛し待つに殊遇を以てせり。富太郎の人に接する一に誠實を以てせりといへども、偶意見の衝突するときは大喝して魂を奪ふことあり。然れども素と磊落洒脱より出づるが故に、敢へて他の恨を受くるが如きことなかりき。富太郎常に曰く、我が主張する所は姑息の藩論を却くるにあるが故に、不慮の禍に罹らんこと實に旦夕を測られざるものあり。是を以て感懷偶一姊と兩男兒とに及ぶときは常に斷膓に堪へずといへども、區々一身一家の安危を顧慮するは我が屑しとせざる所なりと。元治の變に富太郎同志の領袖として長藩との提携を謀り、爲に罪を獲て十月十八日死に處せられき。年四十二。前夜預り人前田監物特に置酒して慰藉する所ありしに、富太郎感激措かずして曰く、厚誼謝するに辭なし、謹んで嘉貺を受けんと。痛飮淋漓數刻にして止みしが、その寢に就くや鼾聲齁々隣室に徹し、詰且刄に伏するの人に似ざりしといふ。二子廉太郎[後之次]・直次郎亦連座して流刑に處せられしも、その齡尚幼なるを以て一類預とせらる。明治二年十月藩富太郎の前罪を宥し、原祿三分の二を廉太郎に給す。二十四年九月また富太郎の殉難を追賞して靖國神社に合祀し、十二月十七日特旨を以て正五位を贈らる。富太郎最後の状も赤當時の手記によりてこれを窺ひ見るべし。 不破富太郎 右不破富太郎儀、長藩等へ立交り、又堂上方の内に立入り、不容易取組有之、過激の説を以て同志を語らひ候族、不屆至極に付切腹被仰付。 ○ 元治元年十月十八日朝五ツ時頃、檢視の役人公事場奉行・大小將組頭・同御番頭・御横目等、何れも富太郎御預り人前田監物宅に指向候處、折節小春の空晴渡り、庭前の紅葉眞盛りとて、假屋指掛け四方の圍ひ等、白幕・定紋の幕等打廻し、假屋の内には白縁の疊、白木綿の上に氈を敷き、假屋の上に紅葉の大木覆ひ掛り、紅白爛漫たる氣色、役人列座威儀堂々の有樣、御刑法とは申しながら、誠に武夫の死場は斯くも有度き事とぞ思はる。扨公事場奉行を始め何れも繪圖面の通り列座の上、富太郎誘引の儀、公事場奉行御用番より公事場役人中西惣右衞門を以て監物方役人迄申入候へば、追付富太郎縮所内に罷在候節の服の儘にて、給人兩人富太郎を中に挾み誘引致し、少し引下り尚又締方給人兩人、縮圖面の通り縁側疊程能き處に着座の上、右御用番關屋佐左衞門富太郎の名前を尋ね、名乘り候上御書立の趣申渡候處、富太郎儀、畏り奉り候。如何樣の重罪にも仰付らるべきの處、士道の御仕置仰付られ難有仕合に存じ奉り候旨御請いたし、退き、縮所内にて湯懸り、髮を結ひ、裝束の間に出で白無垢無紋の淺黄上下等裝束相濟候上、富太郎より、先達て筑前守(慶寧)樣海津に於て御謹愼蒙り遊ばされ候處、今以御愼被爲在候哉。又御病氣の御樣子も如何在らせられ候哉。且つ自分同刑に仰付られ候者は誰々に候哉。兼て懇意の者も有之候に付承り置度、此等の趣可相成儀に候はゞ、御役人に相通じ御聞かせ被下度旨監物重役の者迄申聞候に付、右重役より御用懸り内藤誠左衞門へ申出で、誠左衞門より奉行へ申達し、御横目等へ示談の上申聞かせ保ても然るべしとの享に相成り、御愼は今以て御愼み、御病氣の御模樣は御表にては慥に奉伺兼候へども、追々御快くあらせられ候哉に承り候段、且つ富太郎同刑に仰付られ候者は大野木仲三郎・千秋順之助・青木新三郎の趣申聞けさせ候處、辱き旨申述べ、千秋の儀承り不審の顏色に有之候。(千秋は長藩人と附合不致、又堂上方と取組候等之なき故、富太郎に於ては不審に存候と相考らる。)扨裝束の間に於て重役と盃事・湯漬の式相濟み、夫より介添堀武平白無垢淺黄上下、脇指迄帶し先に立ち、次に富太郎白無垢淺黄上下にて罷出で、其次に介錯片岡八兵衞白無垢淺黄上下にて刀を右の手に持ち罷出で、後見假屋詰人は服紗小袖・布上下著用、脇指迄帶し引續き罷在り、何れも廊下より假屋へ罷出候。富太郎儀御殿の方角相尋候に付介錯より相教候處、其方に向き座して拜を爲し、又少し方向を替へ拜を爲し候。之は金谷御(慶寧)殿を拜し候にて之れ有るべく候。畢て富太郎氈の上に著座、圖面の通り介錯富太郎の左に座し、介添は右に座し候。其時水を入れ候茶碗を、白木の四方に乘せ持出で前に置く。富太郎恭々しく水を戴き、四方の上に置く。介添立て四方を引く。續て四方に九寸五分を乘せ持出で前に置く。其時富太郎、肩衣の前をはづし兩肌を脱ぎ、腹を少し引上げ落付かし、腹卷を〆直し兩端を挾み、改て眼を閉ぢ神氣を落付け候上、九寸五分を取り、拔き、腹へ突立引廻す。介錯は九寸五分を取候節、刀の柄に手を掛け身構を爲し、一足踏出し拔、二足にてかぶり、三足目に首を打ち、誠に介錯の手際神速にて、拔討に致し候哉と思はれ候も、富太郎腹を引廻すとたんに首を打ち、抱き首になり俯向けに倒れ、首を胴の下に敷く。介錯は白木綿の蒲團の端にて刀を拭ひ納め、介添はすかさず立て脇差を拔き、首を切り放ち、脇指を同じく白木綿の蒲團の端にて拭ひ納め、懷中より鼻紙を出し、首の切口並に面の血を拭ひ、眼を撫下げ、改めて懷中より鼻紙を出し、髮を左手に持ち、右の手に鼻紙を持ち、其上へ切口を請け、白洲へ下り、奉行等列座の方へ向き、斜に左眼の見ゆる程に首を持ち、實檢に入れますと申所にて、御横目見屆ました、監物見屆たと之ある上にて、假屋へ上り幕と聲懸け候へば、幕を下し屏風にて引廻す。誠に富太郎の大丈夫、介錯・介添行屆たる始末、是ぞ實に切腹の龜鑑ともいふべき。富太郎儀御預け中萬事愼方宜しく、勤番人へ向ひ御國事並に身の上の事抔少しも申聞けず、文武の咄合致居候にて、右落著仰渡され候時にも神色自若として常に替らず。介添堀武平より、何ぞ仰殘され度事有之候へば御遠慮なく仰置かれ度と申入候處、此場に至り未練の儀存候とも益もなき儀、姊一人・忰二人罷在候へども、結構なる御國の儀如何にも致し世を送り候にて之れ有るべく候へば、何も心に懸り候儀これ無く、唯重罪之儀結構の御仕置仰付られ有難くと存居候迄の旨申聞居り、假屋へ罷出る節も面色更に變らず、精神常に倍し候態。富太郎性質豪邁、才略非凡、少しく僻に落入るの風あり。今度の事過激に失し、長藩等と取組候儀等、御國難を釀し不忠の致方に相成候て、罪は惡むべしといへども惜むべき丈夫といふべき也。 〔不破富太郎切腹始末〕 不破富太郎手寫本金澤市故不破之次氏藏 不破富太郎手写本