青木新三郎諱は秀枝。藩の料理人青木義登の長子にして、天保四年六月二十六日を以て生まる。弘化中父の蔭に因り、別に七人扶持を賜はりて料理人となる。秀枝武技に熟し、又國學を橘守部に受け、夙に勤王の志を懷き、交を志士に結べり。元治元年四月秀枝藩侯父子に上書して勤王の大義を論じ、次いで慶寧に隨ひて上洛し志士と相往來せしが、歸藩の途八月十六日小松に捕へられ、篠原猪太郎忠篤の邸に禁錮し、十月十九日切腹せしめらる。二子權太郎・代次郎亦連座して流に處せられしも、年尚幼なるを以て一類預となれり。 青木新三郎 右新三郎儀、不破富太郎同樣長藩へ取組、堂上方の内へ立入り不容易取組有之、叛逆之徒小島彌十郎を匿候族、不屆至極に付切腹被仰付。 享年三十二。辭世の歌にいふ、『朝夕に君の御爲と思ふより外に心はたもたざりしを』、又『いさぎよく血汐となりて枝々を我おくれじと散る紅葉かな』。明治二年十月藩新三郎の前罪を赦し、三年十一月祭粢料をその家に給す。次いで二十四年九月靖國神社に合祀せられ、十二月十七日特旨を以て正五位を贈らる。 小川幸三諱は忠篤、字は士信、初め三義と稱し、後幸三と改む。號は靖齋又は後素。先世忠次、前田利家に仕へて戰功ありしが、子孫故ありて祿を放たれ市人に伍せり。幸三の父忠安、一方と稱し、石川郡鶴來に住して刀圭を業とす。幸三天保七年正月十三日を以て生まれ、幼にして大志あり。年甫めて十四にして京師に適き、典醫太田伊豆に就きて學ぶ。居ること五歳の後父に請ひて曰く、兒願はくは天下を濟ふの術を學ばんと。遂に江戸に往き、幕儒小林氏の門に遊び、業成るの後藩に歸りて子弟に教授せしが、幾くもなく再び西上し、詳かに天下の形勢を察し、因りて封事を上れり。文久二年閏八月、藩吏幸三を招きてその主旨を聽く。然るに幸三を以て浪士に關係ありと讒するものありしかば、九月廿九日幸三は年寄奧村内膳直温の命によりその郷鶴來に錮せられき。三年正月將軍家茂上京せんとし、藩侯齊泰に命じて先づ發せしむ。是に於いて藩は幸三の罪を赦し、定番徒士に列し、祿三十六俵を與へ、京師の事情を探らしめき。已にして齊泰歸藩し、幸三も亦歸る。是より勤王の義を唱へ、同志と協力して輿論を鼓舞せり。元治元年七月十九日慶寧退京の報あるや、二十二日馳せて海津に抵り、慶寧に謁して意見を上る。藩彼が擅に境外に出でたるを咎め、越前府中に之を捕へ、金澤に護送して刎首に處せらる。時に十月二十六日なり。 小川幸三 右幸三儀、豫て浪士と深く立交り、過激の説を以て多く同志を語らひ、御國禁を犯し海津迄罷越候儀等、元來過激の説を唱へ候根元之者にて、不屆至極に付刎首被仰付。 幸三死する時年二十九。辭世に曰く、『一片和魂終不伸。二年間再作囚人。君恩未報死何朽。號泣昊天歸海塵。』『敷島の我が秋津洲の武士は死すともくちじ大和魂』。明治二年十月藩幸三の前罪を赦し、三年閏十月甥忠明に原秩二分の一を給して、その後を襲がしむ。二十四年九月朝廷幸三を靖國神社に合祀し、十二月十七日特旨を以て正五位を贈らる。幸三の妻は名を昌といへり。幸三就刑の前數日、獄に至りて夫に代らんと請ふ。吏之を斥けて親族に付せり。明治二十六年常宮・周宮兩内親王の御用係を命ぜられ、名を改めて直子と稱せしが、三十六年老を以て辭し奉り、大正八年九月六日東京に歿す。時に年八十。 小川幸三筆蹟石川郡小川忠明氏藏 小川幸三筆蹟