野口斧吉、後磊藏と改む。諱は之布、字は士政、犀陽と號し、國老横山氏の儒士なり。元治の邊に、國事に奔走したるを以て十月二十六日主人に永御預の刑に處せられき。その在獄中の慘憺たりし事情は、之を斧吉の談話筆記によりて知るべし。斧吉明治元年三月廿三日大赦令によりて罪を宥され、同年北越戰爭に藩の探偵として從軍し、二年正月士籍に登庸せらる。後文部・司法二省の屬官を經、晩年前田侯爵家の編修に從事し、三十一年三月二十二日歿す、年六十九。この日特旨を以て從六位に叙せらる。 横山三左衞門家來扶持方給人 野口斧吉 右斧吉儀、浪士輩同樣、固陋過激の説を以て同志申合、御國事向周旋の示談に知り、且つ與力福岡惣助御咎中も不憚會合いたし候族、不屆に付主人へ永く御預け被成候。 ○ 八月十七日(元治元年)朝五ツ時、横山氏家老横山八百人より切封(キリフウ)の書状を送り、斧吉に來宅を促す。切封は凶事を報ずるに用ふるものなり。是に於いて必ず逮捕せらるべきを知りその家に至れば、八百人等列座して斧吉の主人横山三左衞門に御預となれるを告げ、兩刀を奪ひて一室に錮し、徒士組の士六人之を警護す。夜に入りて主家の縮所(シマリシヨ)成れるを以て、青網・長棒の駕籠に乘じ同邸に送らる。乃ち衣服を更め、襟と裾とを附せず紙捻を以て紐となせる獄衣一枚と犢鼻褌とを與へらる。締所の大さ二間に一間、入口に錠をおろし、食膳を入るべき穴を開き、徒士侍六人之を護り、足輕二人給仕の任に當り、一汁二菜又は三菜の膳部を供せらる。已にして公事場に召喚し取調べらる。公事場は一定の式日に開廷するを法とすれども、本件は頗る重大なるが故に特殊の日に開かれ、奉行多賀源助・與力内藤誠左衞門・留書早川儀三郎等事に當る。十月十八・十九日に至り不破富太郎以下の獄成りしが、斧吉は二十六日を以て再び公事場に召喚せらる。此の日天甚だ寒く、斧吉は控所に在りて宣告を待ちしに、暫くにして大聲囚人を斬るの音を聞けり。獄吏相語りて曰く、これ福岡惣助の斬に處せられしなりと。次いで又音あり、これ小川幸三の刑死せるなり。斧吉は此の後奉行の面前に召され、永御預の宣告を受く。乃ち横山氏の邸に還り、更に家祿を褫ひ家財を歿收し揚屋入を命ずる旨を告げられ、邸内の獄に投ぜらる。獄の廣さ六尺四方、高さ頭に滿たず。壁なく、羽目板を以て張り、食器を入るゝ穴を穿つ。獄前には番人の居室連接し、光線は之より屈折して纔かに獄内に漏るゝに過ぎず。故を以て晝尚夜の如く、著衣は前記のもの一枚のみにして、外に少量の藁と、襟と裾とを除きたる夜具一枚を與へらる。食物は一日量として、毎朝玄米三合を炊きたるものと、鹽漬茄子三個宛を給せらる。かくて三冬の日は嚴寒と虱とに苦み、九夏の夜は苦熱と蚊軍に惱まされ、世事を聞かざること三年にして、慶應二年の秋に至り始めて改元ありたることを知れり。後番卒等漸く斧吉の罪状が國事に關するものたるを憐み、その兩親と獄中との連絡を圖り、二ヶ月に約一回の差入を得るに至れり。斧吉在獄三年七ヶ月にして、明治元年大赦に遇ひ出獄す。時に鬢髮蓬の如くにして束ぬべからず、爪鬚延びて鬼畜に似たりき。 〔野口斧吉談話筆記〕