駒井躋庵諱は定勝、初名源次。同心組柴田山藏の子なり。壯歳京都に勤學して醫を修め、遂に留りて名を駒井躋庵と改む。人と爲り懷慨氣節あり。常に皇威の振はざるを歎き、且つ長州侯の能く王事に勤むるを欽慕し、我が藩主の亦此の如くならんことを冀へり。躋庵京に在りて一日某を訪ひしに、座に小册子の時事を記するものありしかば、躋庵は之を借らんと乞へり。主人曰く、これ坊間の雜説を記するもの、何の用をか爲さん。躋庵曰く、我が藩邸の士をして之を讀み、以て天下の形勢を窺はしめんとするのみ。主人曰く、貴國は堂々たる大藩なり、而も邦家危急の秋に當りて一人の志士あるを聞かず。これを示すも未だ益する所以を知らずと。是に於いて躋庵慨然たるもの之を久しくして曰く、諸君の蔑視するもの實にその理あり。我が藩提封百萬といへども、因循苟安にして名分を解するものゝ鮮きは慚愧に堪へざるなりと。聲涙共に下り敢へて仰視する能はざりしかば、一座皆感動せり。文久三年五月姊小路公知賊の爲に朔平門に傷けらる。躋庵急に匿名の書を作り、藩に郵致して京師の動靜を報ず。藩侯大に驚き、直に老臣本多政均を上京せしめ、以て王事に周旋せしめき。初め書を致しゝものゝ何人なりやを詳かにせざりしが、後躋庵なることを知り、君臣共に彼が機宜の處置を爲せるを稱せり。躋庵大に喜び、爾後屢京師の事情を報じ、或は藩士を紹介して志士と交を結ばしむ。同年八月長藩入京を禁ぜられて薩・會の勢力を得るや、躋庵乃ち四方に奔走し、諸藩の議論を偵知して長藩に内通し、誓ひて毛利侯父子の寃を雪ぐを期し、又連りに時事を我が藩に報ぜり。元治元年慶寧の上京するや、躋庵また扈從の士不破富太郎・大野木仲三郎・青木新三郎等と共に、屢長藩邸に至りて毛利侯の爲に匡救の事を計りしが、慶寧の藩に就き同志皆捕へらるゝに及び、躋庵も亦在京の日過激の説に左袒せりとの理由を以て、十月二十六日永牢に處せられき。 御臺所附同心柴田喜太夫厄介駒井躋庵事 柴田躋庵 右躋庵儀、不破富太郎等他藩附合之致手引、且京地勤學年限相滿、出奔同樣の者に候處、今度御國難を釀し候要件に拘り、不屆に付永牢被仰付。 慶應三年八月九日躋庵獄中に死す。年五十七。毛利侯之を聞きて深く痛悼し、爲にその墓碑を京都に建てたりといふ。明治二年十月藩前罪を赦し、三年十一月祭粢料をその家に賜ひ、二十四年九月靖國神社に合祀せられ、十二月十七日正五位を贈らる。