永原恒太郎、諱は好知。馬廻組に班し、祿五百石を食む。嘉永以降藩に在りて國事に盡瘁し、元治元年慶寧上京の際病を努めて奔走せしかば、四月廿四日遂に歿せり。時に年三十二。大正十五年四月靖國神社に合祀せらる。 廣瀬勘右衞門、諱は政敏。大小將組に班す。元治の變に座して家に錮せられしが、此の時已に病みたるを以て、獄未だ成るに及ばずして九月二十一日歿せり。享年二十八。大正十五年四月靖國神社に合祀せらる。 瀬尾餘一、諱は紹元。本姓は御園氏。元治の變その家に錮せられ、慶應三年三月二十六日病みて歿す。年三十一。大正十五年四月靖國神社に合祀せらる。 元治の事變に直接關係する所あらずといへども、尚當時に在りて勤王の志厚く、その事蹟大に見るべきもの兩三を數ふべし。今亦こゝに附載す。 大城戸長兵衞、諱は宗守、耕巖齋と號す。祖父耕鐵齋の時より鶴來に住して賈人たり。長兵衞夙に王室の式微を慨し、嘉永以降京師に來往し、自ら姓名を變じて四方の志士と交れり。長兵衞、淺野屋佐平と從兄弟たり。元治中佐平の捕へらるゝや、長兵衞自ら炕を撃ち、應答の翰牘・日記其の他吟咏書畫苟も志士の筆に成るものを焚き、敢へて斷簡零紙を留めず。之に由りてその難を免るゝことを得たり。明治六年十二月四日年六十四を以て歿す。大正八年五月十七日朝廷特旨を以て長兵衞に從五位を贈り給ひき。