八月二十二日幕府は又齊泰に對し、速かに出府すべきを命ぜり。是を以て齊泰は九月十一日發途せんことを約したりしが、前日に至り病と稱してその期を延べ、次いで十月二十四日家老前田典膳を江戸に遣はし、武門の面目を維持せんが爲再び齊泰に禁闕の守備を命じ、且つ征長の役に關しては藩が既に準備を終りたるを以て、幕府の前令に基づき強ひて參與せしめられんことを要求せり。幕府乃ち之を斥くること能はず、十一月七日阿部豐後守正外は藩吏を招き、慶寧の退京に對する處分は他日之を行ふべきことを保留するも、更めて齊泰を京師の警護に任ぜしめ、且つその病少しく癒ゆるに至らば速かに江戸に參觀すべきを命じ、又征長の事に關しては齊泰の代理として長連恭を藝州路の先鋒たらしむべき令を傳へたりき。齊泰は之を以て藩が幕府の譴を蒙るべき危機を脱し得たるなりと解し、同月十八日再び親翰を連恭に下してその發奮を促せり。齊泰また禁闕守護の任務を果さんが爲その代理として老臣横山三左衞門隆平を派し、隆平は翌年四月に至るまで京に止まれり。 今度長州家來之者奉對禁闕不容易及擧動候節、筑前守(慶寧)儀病氣に付引取候始抹奉恐入候付、私儀病中には候得共、早々出府委細申上候樣被仰渡候付、參府之用意申付、無程發途可仕處、折柄從來持病之脚氣差發甚難儀仕候得共、今般筑前守儀に付而は深く恐入候次第に付、いか樣にも療養相加、出府御詫申上候心得之處、老年之事ゆへ爾々無之、暫發途延引仕、則家來之者より御屆申上候通に御座候。猶無油斷療養加へ、少に而も穩に臨候得ば、何分にも手當仕早々發途之心得罷在候處、頃日追々寒冷之時節に至、病勢立戻難儀至極罷在、此体に而は長途之旅行難出來、急に出府之儀無覺束、迷惑之次第誠に奉恐入候。右樣之族に付不得止、暫參府御猶豫可被成候。乍去御詫申上候儀延引罷成候而は重々無申譯次第に付、先家老前田典膳え私心底之處委曲申含出府爲仕候間、同人より巨細可申上、御聞取可被下候。且筑前守え被仰付置候京師御守衞之儀、御免被仰付候樣之御沙汰御座候而は、武門之道も難相立、諸藩に對し面目を失ひ深心痛仕候間、右御守衞之儀は此儘私え被仰付候樣奉願候。尤此節病中には候得共、爲名代家老上京爲仕、嚴重御警衞相心得可申候。且又長州御征伐に付、家老長大隅守儀討手之内孰れの手え成共御差加被下候樣願之趣に付而者、以御書取御達之儀も御座候所、病氣に而參府御猶豫奉願ながら、猶又申上候者御汲取も如何与奉存候へども、大隅守儀一旦追討後陣も被仰付候處、其後に出張には不及旨御達には候得共、于今滯京罷在、大隅守は不及申附屬之者共に至迄、一統格別奮發罷在候間、格別之御沙汰を以、長防追討何れの手え成共倒差加被成下候樣再三奉願候。右兩條懇願之趣は、何分にも參府委曲申上奉願度心底に御座候所、前顯之次第に付不顧恐此段も申上候。何卒宜御執成被下候樣仕度奉存候。以上。 十月(元治元年)加賀中納言(齊泰) 〔元治元年八月御上京一件〕 ○ 加賀中納言 京師御警衞之儀、松平筑前守(慶寧)被仰付置出京罷在候所、京師事變之節病氣とは乍申不都合の引拂致候に付、追而御沙汰之品も可有之候得共、段々申立之趣も有之に付、京師御警衞之儀は其方え被仰付候間、一際嚴重相心得、御警衞向相立候樣可被致候。尤右之通被仰出儀には候得共、其方儀病氣少も快候はゞ押而も一先出府候樣可被致候。 十一月(元治元年) 〔元治元年八月御上京一件〕 ○ 加賀中納言(齊泰) 其方儀、病氣に者候得共、毛利大膳父子始追討に付陸路藝州路之先鋒、松平安藝守(淺野茂長)・板倉周防守(勝靜)・阿部主計(正方)頭同樣被仰付候間、爲名代在京之家老長大隅守え隊長申付早々差向、尾張前大納言(松平慶勝)殿御指揮に隨奮戰候樣可被申付候。諸事安藝守始え申合、委曲尾張大納言殿え相伺候樣可被申付候。 十一月(元治元年) 〔元治元年八月御上京一件〕 ○