齊泰が如何に慶寧退京の善後策に苦心したりしかは、上記の親翰によりて之を見るべし。さればこの際幕府の下したる命令に對し、事の難易に拘らず全力を擧げて之に盡くすべしと考へたるは、猶齋泰のみに止らず、上下を通じて藩是と認めたる所のものなりしなり。 既にして十一月廿五日、長連恭は出陣の日將に近きにあるを以て、參内して天機を奉伺したりしに、孝明天皇は傳奏野々宮中納言をして厚く之を犒はしめ給へり。この日以後連恭配下の士卒陸續として京を發し、淀川を下りて大坂に向かひき。即ち二十五日の大筒頭並に護衞隊御先手三組を以て先發とし、二十六日には兵士支配並に兵粮方、二十七日には今枝民部・伴八矢・伊藤平右衞門・富田外記の率ゐる手兵、二十八日には總將長連恭の手兵、二十九日には前田主膳・深見右京・多賀左京の手兵各之に次ぎしが、尚京師に殘留するもの若干ありき。時に海上風浪甚だ險惡なりしを以て、諸軍急に大坂より發船すること能はざりしが、十二月四日に至り初めて四千餘人を船二十二艘に分乘して出帆せしめ、七日には連恭も亦藩有の汽船發機丸に搭乘せり。然るに強風尚止まずして操舵意の如くならざりしかば、連恭は十四日纔かに安藝國安藝郡江波村に上陸することを得て、海寳寺を陣營とし、翌十五日廣島城外に駐れる總督松平慶勝・閣老稻葉正邦及び津侯藤堂高猷を歴訪してその着陣せることを告ぐ。十九日連恭は總督より、緩急の際廣島の西口草津を加賀藩の防備區域とすべきを以て、豫め常に斥候を派遣してその地の動靜を偵察すべきを命ぜられ、二十四日轉じて東寺町禪林寺を本營とし、同町源勝寺・等覺院に士卒を收容せり。次いで二十七日總督又連恭を召す。連恭乃ち之に應じて至れば、長藩が既に幕府に對して恭順の意を表したりしを以て、征討軍の撤退を命ぜられたるなりき。 長大隅守 毛利大膳父子服罪に付、國内鎭靜之体爲見屆候處異儀無之候。依討手之面々陣拂可致候。 元治元年十二月二十七日尾張前大納言(松平慶勝) 〔長氏家譜〕 長連恭宛前田齊泰書翰男爵長基連氏藏 長連恭宛前田齊泰書翰