然らば前に言へるが如く、加賀藩をして幕府の武備に對する幻滅を感ぜしめ、その沒人道なる處置に憤慨措く能はざらしめたる南越の陣とは、果して如何なるものなりしぞ。今之を説くに當りて、聊か水戸藩の黨爭に遡らざるべからず。 元治元年春、水戸藩の天狗黨たる藤田小四郎等は、密かに長藩と謀を通じて兵を常陸の筑波山に擧げ、勤王の大義を鼓吹したりき。是に於いて同志の集る者千餘人に及び、幕府の討伐軍を下妻に破り、勢に乘じて水戸城に迫らんとせり。然るに佐幕黨たる市川三左衞門一派の之と戰ふに及び衆寡遂に敵すること能はず、小四郎等那珂湊に退き、偶手兵を率ゐて來り會したる武田耕雲齋と共に尚支持すること二ヶ月なりしも、同志の士或は殺され或は出で降りてその勢益振はず、到底當初の目的を貫徹すること能はざるに至れり。因りて耕雲齋等は京師に赴きてその衷情を訴ふる所あらんと欲し、敗兵を集めて野州に出で、上州に移り高崎藩の兵を下仁田村に反撃して勝ち、諏訪・松本兩藩の兵と信州和田峠に戰ひて之を走らせしが、その木曾路に入りてより降雪の爲に惱まされ、行軍頗る慘澹たる状を呈したりき。 時に水戸侯徳川齋昭の子一橋慶喜は京都守護總督の職を奉じたりしが、耕雲齋等が沿道諸藩と戰ひつゝ上洛の途に在るを聞き、一はその職責を盡くし、一は生家舊臣の暴擧を制せんと欲し、自ら朝廷に請ひて彼等の行進を京師以外十里の地に阻止せんと企てたりき。當時幕府は長州征伐に從事して多く兵力を中國に用ひたりしが故に、在京各藩兵をして之に當らしめんと欲したりしが、加賀藩に於いては老臣長大隅守連恭等既に征長の軍に參加せんが爲に大坂に向かひたりしも、部將馬廻頭永原甚七郎孝知・兵士頭赤井傳右衞門直喜及び不破亮三郎貞順の尚京師に止るものありしを以て、十一月二十九日慶喜は用人黒川嘉兵衞をして亮三郎を招かしめ、加賀藩兵の越前路に出陣せんことを要求せり。藩乃ち命を奉じ、甚七郎等三人及び礮隊長武田金三郎友信をして慶喜の援軍たらしめき。