是に於いて十二月三日加賀藩の諸將は、士卒を率ゐて京師を發し江州草津に次せり。この日慶喜も亦出でゝ大津に陣し、四日諸藩の隊將を本營に集めて軍議を開きしに、加賀藩は永原甚七郎・赤井傳右衞門・武田金三郎を遣はして之に與らしめき。慶喜乃ち部署を定めて、徳川民部大輔を以て右先鋒とし、加賀藩を左先鋒とし、福岡藩等を中軍の左右に備へしめ、會津藩を後備となし、別に小田原藩をして海津を守らしめ、大溝藩をして自らその封境を嚴にせしめき。時に會津藩は議を建て、今賊徒上洛の理由未だ明らかならざるに之を討伐せんとするは、決して策の得たるものにあらざるが故に、宜しく詳かに彼等の實情を糺したる後にせんと述べしに、小田原藩は之を反駁し、賊徒の所業既に那の如く不穩なるを以て、彼我の遭遇するや直に之を撃攘するを妨げずと論じたりき。而して慶喜は略會津藩の説に左袒し、之を討つと討たざるとは敵の行動を察し時の宜しきに從ふべしとの意を漏らしゝかば、加賀藩の諸將も亦之に賛し、遂に各部隊の裁量に一任するに決せり。 然るにこの時水戸浪士が琵琶湖の東西いづれに進路を取るべきかを知り得ざりしを以て、姑く先鋒を草津に置き、本營は依然として大津に留りしが、十二月六日に至り浪士等が間道を經て將に越前に入らんとすとの報に接したりしを以て、慶喜はその本營を大溝に移すべく、隨つて加賀藩の兵は草津を發して直に南越に向かひ中軍の前衞たるべしとの命を發せり。是を以て甚七郎等は即夜行軍を起し、翌朝大津より船を僦ひて湖上を横ぎり、夜半より八日にかけて梅津に上陸し、九日海津を發して敦賀に達したりき。