是より先水戸浪士は、十二月二日美濃國揖斐を發し、三日及び四日は山路を彷徨して具に辛酸を嘗めしが、特に蠅帽子峠を通過せし際の如きは、五尺の積雪を踏破して暗夜に八門の炮車を牽引し、五日越前秋生村に野營を張り、六日笹又峠を超え、その夜木ノ本に宿し、遂に今庄を經て新保驛に達したりしに、それより二十町を隔てたる葉原には加賀藩の兵あるを偵知し得たり。浪士は先に笹又峠を通過せしより後、沿道土井・間部・井伊・松平諸氏の士卒に會したりしも、彼等は皆避けて戰はざりしが故に、毫もその進路を妨げらるゝことなかりしが、今や加賀藩の兵儼としてその前程を扼し、而して浪士の疲憊その極に達したりしを以て、止むを得ず從來の好戰的態度を變ぜざるを得ざるに至れり。 敦賀に在りし加賀藩の兵は、十二月十日葉原に向かひて進みしに、夜來の降雪三尺許にして炮車の運搬困難を極め、夕七ツ時に至りて漸くその地に著するを得たり。この日武田金三郎の部隊に屬する淺野佐六等、葉原の附近に於いて一人の僧を捕ふ。僧は名を榮林といひ、濃州谷汲の者なるが、浪士の爲に嚮導を託せられたるを以て將に敦賀に赴かんとせしなり。乃ち縳して之を本營に送る。幾くもなく二ツ屋に派遣したる斥候歸り來りて、浪士等の新保驛に進み來るを報ぜしかば、加賀藩は兵を葉原の驛外に出して戰備を修め、武田金三郎の大炮隊を最前列に配置し、銃卒隊をして左翼を護衞せしめ、監軍永原甚七郎は炮隊に次ぎ、赤井傳右衞門の士隊はその右に、不破亮三郎の士隊はその左に在りき。時に天甚だ寒く風威頗る猛烈なりしかば、陣中に樽を開き士卒の飮むに任せて鋭氣を養へり。既にして一橋家の探索人澁谷誠一郎といふ者、加賀藩の營に來りて夜襲の決行を要請したるを以て、藩兵直に之を容れて進撃の準備に着手したりしも、監軍淺香主馬は、新保驛に入れる浪士が纔かに四五十人の少數に過ぎずして、夜襲を行ふの必要なしと主張せしが故に遂に止めり。十一日加賀藩の軍葉原驛外に在りて浪士の來るを待ちしが、士卒は勿論役夫の輩に至るまで自ら竹槍を製して敵に當らんと欲し、甚七郎も亦『おもしろし頭も白し老が身を越路の雪にかばねさらさん』と書したる袖印を附し、鬪志頗る熾なるものありき。甚七郎時に五十二歳、尚甚だしく老齡にあらずといへども白髮の既に斑々たるものあり。是を以てその詠之に及べるなり。