然るに浪士軍に在りては既に全く戰鬪力を失ひたるを以て、加賀藩と衝突するの困難を避けんと欲し、書を致してその上洛を企つるに至りたる顚末を述べ、彼等の目的が水戸藩の一親族に請ひて素志を貫徹せんとするに在るを以て、決して他の諸侯と干戈を交ふるを好まずとなし、その進路を聞きて通過を許されんことを要求せり。加賀藩の諸將乃ち相議し、藩兵が一橋侯を援功すべき目的を以て出張せるものにして、擅に浪士を通行せしむること能はざるが故に、速かに一快戰せんことを欲すとの同答を與へたりき。因りて浪士等又書を送り請うて曰く、貴諭に依れば、尊藩の出陣する所以は一橋侯を援くるに在りといへり。而して余輩が先に水戸侯の一親族に投じて歎願せんと欲すといへるものは、亦同じく一橋侯を指しゝなり。然れば余輩固より貴藩と干戈を交ふるの理由を見ず。卿等若し余輩の行動に關して疑ふ所あらば、敢へて面謁してこれを釋明すべしと。加賀藩の諸將曰く、浪士の輩既に戰意なく、而して我に就きて衷情を訴へんと希へり。然るにこれを聞かずして濫に討伐を加へんとするは、武門にあるものゝ好んで爲すべき所にあらず。而もその陳辯を聞くに當り、彼を我が陣營に招きて會談せんとするは頗る怯懦なるに似たり。如かず我より往きて彼を訪ひ、その言はんと欲する所を徴せんにはと。乃ち監軍永原甚七郎・使番井上七左衞門二人を派することゝし、之を浪士の陣に通牒せり。次いで甚七郎は隨員六人、七左衞門は隨員七人と共に新保驛に至り、村端の民家に就きて浪士の部將瀧川平太郎・岸信藏二人に會せしに、平太郎等は備に水戸藩内に於ける紛亂の状と上洛の後訴願せんとする趣意とを述べて、我が藩の諒解を得んことに努力せり。甚七郎等之を聞き、彼等が寃枉を伸ぶるに由なき窮境に在るを憫み、直に之を拒否するに忍びずとなし、彼等にして若し陳情書を呈して命を待たんとせば、加賀藩は之を一橋侯に手交するの勞を採るべきを誓ひ、夜八ツ時に至りて葉原の陣に歸れり。 以手紙致啓上候。寒冷之候、彌御安靜珍重存候。扨段々傳承仕候得ば、道路御警固被成候趣、御苦勞千萬深察仕候。一体我々共通行之儀は、定て御承知も可有之候得共、故同藩結城寅壽之殘黨市川三左衞門等之讒慝により、恐多くも公邊之御嫌疑迄も蒙り候に付、源烈公積年之素懷も今日に至り磨滅仕候段、臣子之情實に遺憾に存候間、是非共主家之縁族に投じ歎願仕候心得に御座候間、決して諸侯に對し接戰之存寄毛頭無御座候。就ては道路無指支御通し被下候樣奉願候。此段匇々得御意候。頓首。 武田伊賀守(耕雲齋)内 十二月(元治元年)安藤彦之進 御固所(加賀藩)御役人衆中 〔水戸浪士始末〕 ○ 御手紙致拜見候。然者御歎願之趣、且外諸侯へ對し接戰之御存寄毛頭無之旨、委細承知致候。御通し申度候へども、加賀中納言人數當驛出張之儀は一橋殿御加勢に候條、無是非可及一戰存寄に御座候。尚後刻期一戰之節候。御報如斯御座候。以上。 加賀中納言殿内 十二月十一日(元治元年)永原甚七郎 武田伊賀守樣内 安藤彦之進殿 〔水戸浪士始末〕 ○ 御答之趣承知仕候。先書申上候通り、今般我々共通行之儀は、一昨戌年(文久二年)以來外夷航海飽迄神州を輕侮致候に付、勅諚を公邊へ被爲下候へ共未だ成功を不被奏に付、於源烈公も深く心痛被致候へども遂に素志を不被達候段、如何許か遺憾に可被存候。就ては我々共非力の身ながら烈公の遺志致繼嗣度存念に候處、姦人之讒説に逢ひ、却て公邊の御嫌疑迄も蒙り候に付、深く諸侯の兵を致動搖候を相憚り、所々間道を取り致通行候處、於諸藩も兼て姦説流布と相見え、儘道路拒塞被致候儀有之、無據及接戰候へども實に不本意の事に御座候。然る所於御藩は一橋殿之御加勢として我々共通路拒絶被致候趣、甚だ心痛仕候。先書主家の縁族と申候は、則ち一橋殿え相投じ歎願仕候心得に御座候間、我々共情實難相通御嫌疑にも有之候事件逐一申上度、依時宜候ては右等の趣一橋殿へ御通じ被下候ても可然奉存候。先は摘意申上度如此御座候。頓首。 武田伊賀守内 十二月十一日(元治元年)安藤彦之進 永原甚七郎樣 〔水戸浪士始末〕 ○ 御手紙致拜見候。被申越候趣に付其御陣へ可罷越候條、左樣御承知可有之候。以上。 十二月十一日(元治元年)永原甚七郎 安藤彦之進殿 〔水戸浪士始末〕