是を以て十二日曉天に至り、浪士等は瀧川平太郎・岸信藏二人を葉原なる加賀藩の營に遣はして、始末書・陳情書及び心願書の三種を呈せり。始末書は、浪士が水戸藩を脱走して上洛するに至れる顚末を述べ、陳情書は之を慶喜に致して外夷掃攘の主張を貫徹せんことを請ひ、而して心願書は甚七郎に與へて執達を請へるものなり。甚七郎等更に耕雲齋の華押を求めしに、夜九ツ時に及びて浪士有田八郎な再び之を齎したりき。この日加賀藩の井上七左衞門は福井藩の陣に至りて、我が軍の浪士と交渉を開始せることを述べ、之に關して本營の指揮を受くるに至るまで進撃を止めんことを求め、又同じく彦根藩の陣に傳へ、各守備を嚴にして警戒せり。次いで十三日朝、井上七左衞門は疋田驛に在りし幕府の監察織田市藏に面して、甚七郎等が浪士と折衝せる次第を報告し、又浪士の出しゝ始末書と陳情書とに藩の副申書を加へて、之を大津に在りし大監察瀧川播磨守に送致せり。播磨守之を見て曰く、彼等浪士の輩既に干戈を携へて天下に横行し、諸侯の領域を冐して賊名を蒙る。今にして辯疏するも何の要かあらんや。彼等將に面縳して出で降り、罪を謝して命を待つべく、然らば則ち容れられざるなきを保せずと。因りて更に加賀藩の使者をして、大溝に至りて慶喜の本營に提出せしめたりき。この日幕吏は加賀藩が浪士に同情するの状あるを喜ばず、且つ徒らに時日を遷延せしめて士氣を沮喪するあらんを恐れ、各藩の陣に移牒して進撃を慫慂し、又一橋侯の用人原市之進等をして書を致さしめ、加賀藩が浪士の歎願に耳を假すは戰意を缺けるによるとの世評あることを述べて、連りに之を激勵せんと企てたりき。 戊午以來(安政五年)天朝醜夷掃攘之勅諚御下げ被遊候より、贈大納言(徳川齋昭)殿日夜憂慮被在之、防禦之計策數度建白被致候得共遂に不被行、臣子之至情遺憾無此上、尚中納言(慶篤)殿も去亥年(文久三年)上京之砌、公邊を輔佐し攘夷之成功を奏候樣との蒙勅命、天盃・眞之御太刀迄拜領被有之歸府被致候得共、何等之効顯も無之に付有志之者一同焦心勞思、是非とも醜夷之凌辱を雪ぎ御國体相立候樣との存込より、以死盡力義氣を鼓舞し罷在候處、當子五月中從天朝被仰出候鎖攘之儀公邊より御布告に相成候を、奸徒市川三左衞門等江戸表に登り、邪説を鼓張し百方相妨候に付、有志者一同申合領内湊村へ引取居候處、右奸徒等兵卒を指向け致發炮候に付、無據及接戰候。然る處公邊之御人數迄も願下し候趣後に承り、諸侯の兵を動し候段深く恐縮仕候。奸亂弄兵之存寄無之は勿論に候得共、有志之者因循罷過候ては、兼て攘夷之勅諚も水泡と相成、綸言如汗之大義分毫不相立候ては臣子之分如何哉と、深く憂念仕候衷情より右事件に差移り申候。同穴之鬪固より不本意に存候に付、一先湊村を避け退去致候事に御座候間、理非分明相成、微志貫徹致候樣仕度至願に御座候。有志之者情實御瞭察、宜敷御取計らひ被成下候はゞ、於一同如何樣之御處置蒙り候共遺憾無御座候。以上。 武田伊賀守 元治元年十二月正生 加賀中納言樣御内 永原甚七郎殿 〔水戸浪士始末〕 ○ 去十日葉原驛へ著陣罷在候處、一昨十一日八ツ時頃賊徒新保驛へ追々相進候段及探索候に付、人數押出可及接戰手筈仕置候處、同日七ツ半時彼より書状を以申越候趣は則申上候次第にて、當手合にては今度爲御加勢出張罷在候儀、無是非可及戰所存罷在候段返答候處、重て申越候趣は、歎願一條に付何分致上達候儀專要之次第、時宜に寄候ては總督樣へ上達之樣致度旨申越候に付、歎願の趣も段々愚考仕候處、天下を動搖いたし候罪科難遁儀とは奉存候へども、歎願之儀不致上達空敷朽果候儀は武士之遺憾、誠に以可憐情實に付、彼者陣へ甚七郎等罷越段々及應接候處、實以同藩奸正の鉾楯より起候哉と被察、畢竟諸國通行いたし候儀無據聞受、且は諸手へ對し彼より戰爭を求め候体無之哉にて、歎願の筋天朝迄も致上達候上は、尤決死罷在候儀故如何体之御處置被仰付候共一統決心罷在候段申聞、誠に以神妙之至に奉存候。右樣之儀より起り候事情に御座候處、暴に押詰討取候儀は實に武士道之遺憾、且は先般御評議の節、賊徒之集會と對陣の違も有之、彼より兵器を解き敵對不致萠も有之上は、討不討は其手之將へ御委任可被爲存候段拜承仕居候に付、一應奉伺候。謝罪之御所置可有之哉、又は討取可申哉。尚御指揮御座候樣奉願候。以上。 加賀中納言内 十二月十三日(元治元年)永原甚七郎 赤井傳右衞門 不破亮三郎 瀧川播磨守樣 織田市藏樣 〔水戸浪士始末〕 ○ 以急使致啓上候。嚴寒之砌御出張、別而御苦勞千萬奉存候。扨は御地之形勢、織田市藏迄御申出之趣得と承知いたし、一方ならざる御心配之段御察し申上候。扨尊藩之儀無比之御大藩、中納言(慶喜)殿にも兼々御依頼、殊に今般は格別之御奮發故、賊徒追撃は尊藩而已にて御十分御行屆に可有之と、中納言殿も大悦被致居候に付御盡力を相祈候次第に御座候處、追々承知致候得ば賊徒より歎願之筋有之哉にて、乍憚尊藩御一同の英氣も少しく相弛み候哉之由、全く見聞迄に候得共中納言殿被致承知、御失策抔と世評を御蒙り被成候樣にては、後日天朝・幕府への御都合も如何有之哉と甚だ心痛仕候に付、任御懇意乍失敬内密此段申上候。右得御意度如此御座候。以上。 十二月十三日(元治元年)榎本高造印 原市之進印 永原甚七郎樣 不破亮三郎樣 尚以折角寒中御厭被成候樣奉存候。文之次第甚失敬之至り御座候得共、中納言殿深く心配被致候に付御内々申上候。御覽後御火中可被下候。以上。 〔水戸浪士始末〕