この日加賀藩は不破亮三郎を浪士の營に遣はして、自今全く交渉を斷絶し戰鬪行爲に移るべきを宣言せり。然るに浪士は絶對に戰鬪を欲せず、已むを得ずんば降伏するも亦可なりとの意を述べたるを以て、亮三郎は之を許し、速かに降伏状を提出すべきを命じ、歸りて明日の總攻撃を延期せんことを上申せり。十七日浪士等前約を踐み、武田魁介を使者として口上書を提出し、加賀藩によりて之を慶喜に執達せんことを請へり。口上書の記する所は、浪士にしてその意志を貫徹するを得ば如何なる處分をも甘受すべしといひ、全然無條件の降伏にはあらず。且つその書中一も降伏の文字を用ふることなくして、頗る彼等の體面を維持するに努めたるものなりしが、亮三郎は深くその字句に拘泥せず、單に降伏の事實を採るべしとなし、別に屆書を添へて一橋侯の家老松浦加賀守及び大小監察に進達せり。 水藩浮浪武田伊賀守歎願書附等三品御屆申上候處、昨十五日御取揚難被成、是非押詰可及接戰旨被仰渡候に付、則明十七日彌可及接戰旨申入候處、一統決死罷在候儀、素願上達可致儀に候得ば如何被抑付、候共聊以厭所存無御座候。依對軍門降伏仕候間、是等之趣夫々執達致候樣申聞候。尤降伏状等差出次第、役筋之者を以言上可仕候へ共、不取敢御屆申上候。諸手へ被仰渡置候樣仕度奉存候。以上。 十二月十六日(元治元年)永原甚七郎 赤井傳右衞門 不破亮三郎 松浦加賀守樣 〔水戸浪士始末〕 ○ 乍恐口上を以奉申上候。我々共情實、先書並始末書中委曲申上候通り更に無他事、只々臣子之分盡度而已に御座候處、申迄も無之因循偸安之人情、飽迄姦慝之説を流し正義之妨をいたし候族も不少、旁以正邪不可同處之勢に至り、不計も有志之士爲群決死報國攘夷之素願度々申述候處、轉戰之事情讒口紛々之折柄、衆騷擾し却て同穴之戰と相成候は、我々共犯亂好事之存意には毛頭無之、實に不得止に出候事に御座候。對公邊大嫌疑を來し、諸侯之營を爲致動搖候段深く奉恐縮候。固より我々共之不本意劃然明瞭仕度衷情より、態と間道を取諸州致通行候處、今日之勢にては到底嫌疑難相免、誠に焦心罷在候。就ては微志貫徹いたし候儀に御座候はゞ、如何樣被仰付候共不苦候。萬願殿下(慶喜)之英明我々共之情實御高察被成下候樣、幾重にも奉懇願候。以上。 十二月(元治元年)武田伊賀守正生判 〔水戸浪士始末〕