海津に於ける慶喜の本營に在りては、浪士の提出したる口上書を以て、此くの如きは浪士輩が宿意を主張するに止ること尚先の十二日に提出せる所と毫も異なるなしとして、一たび之を却下したりしが、而も浪士が恭順の態度に出でんとするに拘らず、強ひて兵力を用ひざるべからざる理由なしとするの議論も亦行はれしが如く、更に一橋侯の用人黒川嘉兵衞・原市之進をして、浪士が降服を請ふの條理だに明瞭なるを得ば之を容るゝの意あることを加賀藩に傳へしめ、次いで穗積亮之介を派して、浪士の降伏状中に幕府に對して謝罪すとの語を含まざるべからざるを告げしめ、大小監察も亦書を致して、浪士が素願を貫徹し得ば降伏せんとの趣旨を固執することなく、單に從來彼等の敢へてしたる行爲が朝廷と幕府とに對して恐懼に堪へざるものたりしとの理由を以てせば、その降伏を許すべきことを告げたりき。 賊徒降伏之儀に付書面申聞候趣有之、降伏いたし候者降伏之取扱に致候儀當然之筋には候得共、元來御追討之御趣意にて、彼歎願等の儀に聊取合候筋も無之候間、是迄之所業對天幕不相濟恐入候との事を以致降伏候ば格別、素願上達致候後は降伏可致との申立にては、是迄之御趣意貫徹不致儀に付、右邊心得取扱可有之、依て別紙書面は及返却候。以上。 十二月(元治元年)由比圖書 瀧川播磨守 永原甚七郎殿 赤井傳右衞門殿 不破亮三郎殿 〔水戸浪士始末〕