翌十八日加賀藩は又武田金三郎を敦賀に遣はして、浪士の降伏せることを監察織田市藏に告げしめき。この日浪士四十餘人・馬七八疋初めて葉原の營に來り、不破亮三郎は之を嚮導せり。時に天俄かに雨ふりしが、浪士等の笠を有するもの一人もなかりしを以て、亮三郎も亦己の笠を戴かざりしに、浪士等皆その義に感じたりといふ。十九日浪士武田魁介以下二百六十人葉原に至りしを以て、藩吏はその鎗等を收めて新保の民家に收め、爾後葉原及び新保の兩驛に士卒を配置して警備に當らしめき。 二十日永原甚七郎は浪士の提出せる降伏書を携へて敦賀に至り、二十一日織田市藏に會し、次いで海津の本營に赴きて之を一橋慶喜に上りしに、慶喜は大に喜び、特に甚七郎を引見して周旋の勞を謝し、自ら用ふる所の鐵鞭と衣服地とを賞賜し、且つその降人を悉く加賀藩に託して監視せしめたりき。時に大監察由利圖書は、降人を禁錮するの處置を特に嚴酷せざるべからざることを告げしに、甚七郎は之に答へて、監視のことは固より愼重なるを要すべしといへども、桎梏を加ふるが如きに至りては彼等を欺きて降服せしめたるに等しきを以て、努めて之を避けざるべからず。その寛嚴如何は一に余輩に委して可なりといひ、遂に辭して葉原に歸れり。而してこの際浪士中に間道を經て逸走するものありしが如く、監察織田市藏は之を加賀藩に報じて注意を促す所ありき。 賊徒共、新保より池之河内・杉箸之間道落行候者も有之哉に相聞候間、右間道絶路致し番兵指置、洩落之者無之樣嚴重警衞可被致候。依て申達候。以上。 十二月二十一日(元治元年)織田市藏 加賀中納言殿 重役中 〔水戸浪士始末〕