二十二日是より先浪士の葉原に來降せしもの既に三百人を超え、その地又之を置くの所なきを以て、永原甚七郎は赤井傳右衞門・不破亮三郎と共に、彼等を收容するの設備に關して相議する所あり。遂に敦賀の寺院に送りて拘禁するに定め、之を慶喜に稟告してその同意を得、一面には傳右衞門をして歸山仙之助・神田清次郎を隨へて新保驛に赴き、耕雲齋等に會して、幕議浪士の降を容れ、これを我が陣に拘留すべきを命じたることを告げしめ、且つ新保が多數の士卒を置く能はざるを以て、將に敦賀に移さんとすることを傳へしかば、耕雲齋等は加賀藩の周旋によりて願意の達するに至りたるを謝せり。次いで傳右衞門等浪士の兵器を收めしに、浪士は銃炮・弓槍・甲冑・旗幟を集め、且つ各自の佩刀をすら脱して之を交付せり。 二十三日一橋侯の老臣松浦加賀守の用人梅澤精一郎來りて慶喜の命を傳へ、永原甚七郎等の勞を慰め賞詞を與へたりき。この日加賀藩は降人武田魁介等二百五十九人を移送せんとし、不破亮三郎の隊を先頭とし、三浦八郎左衞門の隊を殿とし、使番吉田清三郎之に隨ひ、八ツ半時葉原を發し、六ツ半時に至りて彼等を敦賀の本妙寺に收容せり。二十四日亦耕雲齋等四百餘人を移さんとし、赤井傳右衞門・三浦八郎左衞門・江守新八郎等を護送の任に當らしめ、新保を發して本勝寺に收容し、次いで翌二十五日には新保・葉原兩驛に殘存したる七十餘人と負傷者二十五人とを移し、永原甚七郎・土田宗之助・岡田秀之助・佐野鼎等その護送を掌り長遠寺に收容す。是より後、本勝寺は赤井傳右衞門・不破亮三郎、本妙寺及び長遠寺は三浦八郎左衞門・永原甚七郎の各隊警戒の任に當る。浪士の總人員に關しては、耕雲齋の調書に七百七十六人とし、加賀藩の實査には八百二十三人なりとす。思ふに前者は雇傭の雜役を加へざりしなるべし。その他浪士等は乘馬五十二疋・駄馬四十疋を有せり。是より先慶喜は、事既に鎭靜に歸したるを以て二十四日海津を發し、幕府の大小監察も亦二十七日皆歸京し、南越の黄塵全く跡を收む。 今度賊徒降伏一件、格別之御盡力故と御滿足(慶喜)被思召候。彼是長之陣中大儀に付、兩使を以御尋被成候。 十二月二十三日(元治元年) 〔水戸浪士始末〕 ○ 我々共國元出發之節惣人數八百人餘有之候處、途中戰死之者は勿論、脱走之族も有之哉之樣奉存候得共、只今惣人數調査之通り七百七十六人に間違無御座候。然處當所へ罷越候て、前書之外四人脱走いたし候。是は十七日前之事にて、於御藩未だ當所前後之御見張無之前に御座候。途中行軍千人或は千五百人・二千人抔と申觸、人數之多少相定り不申儀、全く行軍之習ひ不得止事に御座候間、此段御明察被下度以書附奉申上候。以上。 子十二月(元治元年)武田伊賀守 正生 加賀中納言樣御内 永原甚七郎樣 〔水戸浪士始末〕 ○ 一、三十八人本勝寺祖師堂之内井田因幡手合 一、四十一人同寺内眞光院之内朝倉彈正手合 一、四十二人同寺内堯運院之内右同人手合 一、二十四人同院之内小野斌男・竹中萬次郎・高野長次郎手合 一、十二人同寺内玉樹院之内安藤繁輔手合 一、六人同寺内堯運院前門番所内藤昇一郎手合 一、五十二人同寺客殿伊賀(武田)守手合 一、十八人同客殿之内岸信藏・瀧川平太郎手合 一、五十七人同客殿之内井田因幡手合 一、三十五人同寺本堂之内同人手合 一、二十六人同本堂之内高野長次郎手合 一、四人同本堂之内安藤繁輔手合 一、三十二人同本堂之内竹中万次郎手合 〆三百八十七人 一、七十七人長遠寺本堂之内山形半六手合 一、十三人同寺妙見堂之内諸手合病人並看病人 〆九十人 一、九十六人本妙寺客殿之内武田魁介手合 一、三十九人同寺客殿茶の間伊藤鍵藏・原内藏助手合 一、六十七人同寺本堂之内川上清太郎手合 一、十一人同寺大乘院之内長谷川道之介手合 一、十九人同院之内村島万次郎手合 一、二十人同寺之内本書院小栗彌兵衞手合 一、十五人同院之内神山勇手合 一、八人同院之内武田魁介手合 一、二十二人同寺之内要志院川瀬專藏手合 一、四人同院之内武田魁介手合 一、四十五人同寺之内弓玄院小林忠雄手合 〆三百四十六人 總〆八百二十三人 〔水戸浪士始末〕