然るに元治二年(慶應元)正月、幕府の若年寄田沼玄蕃頭意尊が將に來りて浪士を糺問する所あらんとし、既に江戸を發して途上に在りとの報を得るや、加賀藩の諸將相議して曰く、意尊は嘗て浪士と常陸に戰ひて敗を取れる者なるを以て、必ずや之を遇するに亡状を極むるなるべし。然りといへども余輩素より浪士に對するに士道を以てせしものなれば、今俄かに幕命によりて彼等を桎梏繋縳するに忍びず。况や余輩は一橋侯を援けて浪士を監視するものにして、其の他の何人よりも指揮を受くるを屑しとせず。如かず意尊の至ると共に速かに監視の任を辭せんが爲、豫め一橋侯の諒解を得る所あらんにはと。永原甚七郎亦深く浪士の境遇を憐み、彼等をして慘虐を免れしめんが爲には、藩の當局に請うて彼等を封内に拘禁すべく幕府に要請せしむべしと爲し、乃ち諸將に謀りしに、不破亮三郎は直に賛せしが、赤井傳右衞門はこれを欲せざるにあらざるも、幕威を冐して累を藩侯に及ぼすの虞ありとし、議遂に一致するに至らざりき。是に於いて諸將は、慶喜に謁せしむるが爲に亮三郎を上洛せしめ、又諸將の意見を具して藩當局の決を取るが爲、大島三郎左衞門を金澤に遣はしゝに、二十日三郎左衞門は廳議の同意を得る能はずとの報告を齎して敦賀に還り、而して二十一日亮三郎は慶喜の容るゝ所となりたりとの結果を得て、同じく陣營に歸來したりき。 慶喜が加賀藩諸將の陳情に接するや、己も亦田沼意尊が浪士を遇するに甚だ慘酷なるべきを思ひて痛心したりしが、十八日意尊の京師に著して慶喜に謁するや、浪士の處分に關しては努めて天下の公論によりて寛大に從ふべく、先の常野に於ける降人との均衡を計り人心の和平を保持せざるべからずとの趣旨を述べたりしを以て、頗るその意を安んずるを得、十九日用人をして現に加賀藩の監視する浪人を慶喜より意尊に引渡したることを内達せり。同日また監察黒川近江守は、彼が意尊に先んじて敦賀に至り、自ら浪士の糾彈に從ふべきを以て、加賀藩の益監視を嚴にせざるべからざることを命じたりき。 敦賀表において其方(加賀藩)へ御預け賊徒之儀、公儀御達之儀も有之、昨十八日田沼玄蕃頭上京に付、中納言(慶喜)殿より直に談判、賊徒ども玄蕃頭へ被引渡候。右は其筋より御達可申儀に候得共、爲御心得從此方(一橋用人)も及御達候。以上。 正月十九日(慶慮元年) 〔水戸浪士始末〕 ○ 賊徒共降伏之始末爲取調、田沼玄蕃殿其外役々敦賀表へ致出張候に付、自分共支配向のもの引連御先へ罷越、右賊徒ども相糺候間得其意、警衞向等之儀是迄之通り相心得、彌嚴重可被取計候。尤委細之儀は着之上諸事可申談候。依之申達候。以上。 正月(慶應元年)黒川近江守 瀧澤喜太郎 越前敦賀表へ出張罷存候 加賀中納言殿 家來中 〔水戸浪士始末〕