正月二十九日拂曉、甚七郎等諸般の準備を整へて幕吏の至るを待つ。この日各寺院の門前には竹柵を結びて出入を停め、福井・彦根・小濱三藩之を警戒し、その鎗を携ふるものは悉く室を脱したりき。既にして幕吏水野良輔先づ本勝寺に至りしを以て、乃ち浪士各自に名刺を携へしめ、或は歩行し或は乘輿を許し、十人宛を一團として之を三藩に交付せしに、翌曉に至りて三寺全部の終結を告げたりき。その人員凡べて八百十八名を算す。爾後幕吏の浪士を遇する状、慘虐殆ど言ふに忍びざるものあり。敦賀の市民之を憐み、交々加賀藩の陣に來り愁訴して匡救を請ふものあるに至れり。 廿四日(十二月)より、加州勢にて晝夜替る〲、武田初め大將分其外下々に至るまで一間の外出る事能はず。取次の役人用辨致し、聊も相分らず。馳走は日々出申候に付大將分より殘り肴を貰受け、又は私共まで燒物付にして馳走之れあり、安心に暮し居候處、正月廿八日に相成り、夫々よりの役人より至ての馳走の趣にて、私共へも硯蓋まで出で御馳走之れあり。翌廿九日には御尋の旨之れありとの風聞に有之候。 廿九日に相成候處、締り入口へ役人參り、武田初め組々にて十人づゝ罷出づべき旨申入候に付、夫々用意の上入口を出で、玄關に向ひ順々に出行き申候。私共如何の事と心配致し居候中、名前呼候間入口へ出候處、駕籠に蒲團敷乘り候樣申聞候間、則ち門外へ乘出し兩方を見受け候處、御公儀並に諸大名衆と相見え槍・鐵炮にて透間なく御固め相成候に付、一同見るより身体震縮罷在候處、敦賀町引廻し參り、町端より行當の處に幕打ち竹矢來の場所之れあり。内へ釣込み、無二無三に大勢押懸、高手小手に占め廻され、足には材木を以て拵へ、一足挾、六寸釘にて打しめ、其上牢の中へ押こめ申候。右の通り大將分始め一人毎に同樣の次第に御座候。私共兩人、一人は四番の牢へ入り、一人は十一番の牢へ入り、右牢と申候は、土藏の大きなるを十七戸前牢に仕立、横に丸穴を明け食事通ひ場に致し、其餘は更に明間御座なく候。追々入來り候人々誠に心外の体に相見え、早く首打申すべくと申候。斯くありと知るならば、一萬二萬の勢は鏖に致すべきを今更心外千萬と實に立腹の聲を承り候。 牢に拵へたる土藏、長さ五六間幅八間より、小さきは長さ十一間幅四間位にて、十七戸前。人數八百餘人、右の通りに相成申候。 二月朔日、大將分計一人毎に呼出し、相尋候由に御座候。右の人々牢へ歸り候上風聞を聞き候處、筑波山初め諸合戰、夫より高崎北向峠人數を打候分相尋候由に御座候。私共儀は、牢の丸穴の口へ役人參り始末相尋申候。平七儀は四番牢、大將分國府新太郎初め一同の中へ入り申候。兼吉儀は十一番牢、大將分小栗彌平・山形半六初め一同の中へ入り申候。牢中の樣子同樣に御座候。一日握飯三つ宛貰ひ申候。入牢の時衣類を脱され丸裸にて吟味致し候間、金子其外着替等まで殘らず相渡し申候。 〔浪士所屬百姓の日記〕 ○ 越前等三藩にて護衞の次第探索に及び候處、濱手町にしん等肥物土藏へ入れ、口戸ゴ器サマ(御器狹問)迄、其外明り取迄も板を打、筵少し宛行(アテガヒ)、兩便所は土藏の眞中に桶を仕込み、三時の食は握飯一つ宛一日に兩度遣し候。本勝寺等三箇寺を出候節袴を著用致させ候處、締所へ入候節袴抔は取揚げ、帶・下帶迄も相改め、襟等へ入置候金子取揚候處惣て千兩餘も之あり候。足枷は松の木にて拵へ、釘付にて鎖鍵は之れなく、目も當てられぬ樣子なり。右土藏五六軒(間カ)、或は七八軒の所へ五十人宛入れ、都合十六御借上にて、越前等三藩へ護衞申渡され候。以後せめて便所通ひに木履三足計與へ呉候樣頼候へども、一切相渡し申さず候程の殘忍の次第、幕府の姦吏個程にも之れある間敷と存候處案外なり。引渡し以前田沼一橋家へ參出、天下の公論も之れあり、常野にて降人も之れあり候に付、處置方一致致さず候ては相成らず、寛大の處置に及ぶべしと申述べ置き、以後の處置方武士道に外れ候。田沼恐怖を懷き、彼等束縳締所へ入候迄海津滯留、漸く二十九日敦賀へ著、宿所も常にかはり、本陣と計り表札出し之れあり候也。右樣海津滯留にて百事命令致し候趣是非なき次第、徳川家命脈も盡果候儀を催し候儀にて、是より天下の動搖不日相起り申すべく候。懷中物等札を付御人數(加賀藩)にて受取置き、跡より公邊へ要用の品迄指出候樣申談じ之れ有り。伊賀守(武田)等惣て將たる者の懷中には、小判七八兩より十兩計所持にて、伊賀守は慶長金十枚所持致候を見屆候。かねは懷中の儘公邊へ指出候へども、一切受取は相渡さず。惣て武器類を始め指出し候も請取は同樣に付、帳面に印章之れあり候を請取の印しに致し度と申入候へども、是以て果々敷返答之れなく候。人別送り帳迄に御勘定吟味役の印章之れあり候。乘馬渡しの節馬具書出し候處、綿密の至りなり、書出し相成候事に候へば品一覽の上相返すべしと之あり候へども、是また今に相返らず候事。 〔加賀藩石黒堅三郎手記〕