是より先加賀藩の將永原甚七郎・不破亮三郎・武田金三郎は、二月四日敦賀を發して京師に赴き、嘗て慶喜より借用したる炮數門を還附せしに、十日慶喜は彼等をその邸に召して軍勞を慰め、三人の外赤井傳右衞門に對して物を賜ひき。甚七郎等乃ち十三日を以て京師を發し、二十一日金澤に歸れり。 浪士の初めて越前に入りしとき、附近の諸侯皆兵を出してその封境に備へしが、我が支藩大聖寺も亦越前と境を接するを以て、藩侯前田利鬯は兵を宗藩に借りて不慮の變に應ぜんとし、福井藩も亦兵を今庄に出して浪士を要撃せんとすとの報ありしかば、加賀藩は十二月十二日九里幸左衞門善禮・井口孝左衞門永錫の隊を小松に遣りて大聖寺藩の援軍たらしめ、三浦八郎左衞門賢高・江守新八郎の隊を越前に遣りて福井藩に加勢せしむ。十三日小松の軍を越前に進めて福井藩の援兵とし、堀半左衞門純・古屋甚兵衞永種の隊を小松に出して大聖寺藩を助けしめ、而して八郎左衞門・新八郎の隊は葉原に向かひて前進す。次いで老臣本多播磨守政均に命じ、力を福井藩に假さんが爲十九日兵を率ゐて金澤より發せしめたりしが、途にして浪士の既に降伏せることを聞き引き歸れり。是を以て福井藩の老侯松平慶永は、翌年正月三日その臣榊原十郎太夫を金澤に遣して謝する所あらしめき。