南越の陣に加賀藩の總帥たりし永原甚七郎は、本姓を赤座といひ、關ヶ原の役に初め西軍の將となり、後小早川秀秋と共に東軍に歸したる赤座久太郎吉家の後裔なり。吉家戰後封を除かれたるを以て來りて前田利長に仕へ、その子右京孝治の江戸に使せし時候の内旨を受けて永原氏を冐したるなり。甚七郎はその支族にして祿五百石を食み、初め大小將組に屬し馬奉行たりしが、嘉永六年作事奉行に轉じ、更に馬廻番頭を兼ね、文久三年五月頭並に進み、元治元年八月京都に在りて馬廻頭兼聞番となり、次いで水戸浪士防禦の事に從ひて功ありしを以て翌年秩祿三百石を加賜せられたりき。慶應三年十月甚七郎銃隊馬廻頭並に補せられ、姓を赤座に復し、明治二年三月職制改革のとき學政及び軍政寮の副知事となり、後參事となる。六年一月十四日歿す、享年六十一。 一、三百石永原甚七郎 甚七郎儀、一橋中納言殿、常陸下野兩國脱走之浪士御追討、近江路へ御發向に付、越前葉原驛へ出張已に可及合戰處、浪士共此方樣御人數陣門へ向一橋殿へ降伏相願候に依り、右一陣御人數惣司にて、内外取扱方首尾格別之盡力拔群之働に付、如此御加増被仰付候事。 〔水戸浪士始末〕 耕雲齋の死に就きし翌慶應二年、永原甚七郎・不破亮三郎等曾て事に與りし者相謀り、四月四日追悼の法會を金澤の郊外大乘寺に擧ぐ。五月西本願寺浪士の墓標を彼等の刑場たりし來迎寺野に建てんと欲し資を藩に請ひしを以て、藩侯前田慶寧は金四百兩を與へて工を助けたりき。次いで九月越前に在りし浪士の殘徒にして衣食に窮するもの六人の爲にまた金二百兩を贈れり。明治五年二月甚七郎水府義勇塚を自家の菩提所たる棟岳寺の境内に建つ。八年朝廷耕雲齋等に松原神社の號を授けられ、十一年車駕北巡せしとき祭祀料五百圓をこの神社に下賜せられしも、當時未だ祠殿を有せざりしが、三十一年地方有志等造營の爲に助資を前田氏に請ひしを以て、侯爵前田利嗣は獨力工を竣へ、十月九日その鎭座式を執行せり。 水府義勇隊 水戸藩士武田伊賀守等千有餘人。有故去國。轉戰數次。遂到于越前葉原驛。請降我加藩軍。以聞衷情於黄門一橋公。後幕府有命。伊賀守等百餘人。處刑于其地。實慶應元年二月四日也。其事状有出不得止者。余時管其軍務。鳴呼亦無如之何矣。因異日爲之。請受血脈于天徳活宗和尚。瘞之本州棟岳寺境内。以修其冥福云。 明治壬申歳春二月四日加賀赤座甚七郎藤原孝知建 寳圓莫道代誌焉 〔棟岳寺内水府義勇塚〕