慶寧の藩侯となるや大に時世の變遷に鑑み、鋭意内治を勵み、百度更新の實を擧げんと欲したりき。是を以て慶寧は老臣を江戸に置き、己に代りて江戸城警備の任務に從はしめ、自ら國に還りて老侯齊泰の教を受け、以て封内の庶政を親裁し、然る後京師に朝せんことを幕府に稟請せしに、五月二十七日その許可を得たり。慶寧乃ち七月四日を以て江戸を發し、二十一日金澤に入り、政務に關する秘籍を齊泰より授けられたりき。慶寧のこの行、前後十八日の久しきに亙りしものは、本月十三日封内に洪水ありて、家屋の流損せしもの一萬五千三百四十戸、橋梁の流失二十七、死者八十二人に及びたりしが、越中常願寺川の汎濫最も甚だしくして、淹留の止むを得ざるものありしに因るなり。