この年將軍家茂大坂に在りて疾みしかば、幕府は八月三日慶寧に命じ、急に國を發して京師に上り、以て内裏警衞の任に當らしめんとし、八日更に命を傳へて之を促せり。因りて慶寧は將に入朝せんと欲し、十九日前田彈番孝敬の先發したるを始とし、爾後陸續として士卒を途に就かしめしき。然るに家茂は既に十一日に薨じたるを以て、二十日喪を發し、次いで一橋慶喜入りてその後を承けたりしが、九月八日孝明天皇は又飛鳥井中納言をして詔を傳へしめ、慶喜の献言に基づき將に諸侯を會して衆議に詢ふの必要あるを以て、速かに慶寧の入朝すべきを命じ給へり。是に於いて慶寧は、同月二十七日を以て出發の期と定めしも尚病によりて果さず、遂に十月十三日に至り本多播磨守政均・篠原勘六一貞以下士卒三千七百人を從へて發したりき。慶寧の城を出づるとき老臣を警めて曰く、我が藩既に大兵を京師に派し、今亦軍を率ゐて入朝せんとす。是を以て假令輦轂の下に事變の起ることありとも、新たに士卒を藩より徴するを要せざるべし。而して余不在の間領國の沿海に外舶の來寇することあらば、一に老侯の指揮を受け、機に臨み變に應じて防禦せざるべからず。若しそれ隣境互に紛擾を釀すに至りては、余別に之に處するの策あるを以て、記して筐中に藏せり。事急なるに當りて之を開けと。この夜慶寧小松に至りしに、去々年譴を得て屏居を命ぜられたる行山康左衞門は、竊かに家を脱して追ひ來り、侯の旅舘に就きて封事を上り、又駕に隨ひて上洛せんことを請ひしが、慶寧は之を郤け、命じて金澤に檻致せしめたりき。