慶寧は十月二十四日京師に入りて建仁寺に舘せしが、二十八日入朝して襲封と任官の恩を謝し、尋いで十一月朔新將軍慶喜に二條城に謁して上書を呈し、七日又福岡侯の世子藤堂大學と共に二條城に至りて慶喜と時事を論じ、九日には長藩の處分に關する意見を幕府に疏せり。翌十日慶寧は、既に朝旨を奉じ、慶喜と會して所見を縷陳せしを以て、他に王事の急を要するものなくんば一たび藩に歸らんと請ひしに、十三日天皇飛鳥井中納言をして勅を傳へて之を允し給ひ、而して慶寧は十六日京師を發し、二十六日金澤に入れり。 この時に當りて諸般の藩制、天下形勢の推移に隨ひて大に革新を要するものありき。是を以て慶寧は、八月十八日先づ諸士に令して、西洋新流の火器を用ひしめしが、更に十二月八日に至り、舊來の軍制を改良して時宜に感ずる所あらんと欲し、老臣以下組頭に諮詢して各その意見を言はしめたりき。 當家軍制之儀者、先代よりの規則茂有之事に候得共、當今之形勢可致差略存寄に候。就而者廣く議論茂承度候間、内外大小事件無泥可被申聞候。此段被相心得、三組頭え茂可被申聞候事。 〔續本藩歴譜〕 この月二十五日慶寧は老臣以下に令して、舊來用ひたる長柄傘を廢し、轎に乘るを止め、又は挾箱・笠籠を携へて隨從するものを省く等、務めて儀衞を簡捷ならしめ、二十九日には有司に命じて、冗費を除き繁文を去り、且つ各時弊に關して見る所を言はしめき。 慶應三年正月三日慶寧又老臣に諭して曰く、客冬既に臣僚をして兵制の損益に就きて議せしめしは衆の知る所なり。その後余之を熟慮するに、方今の軍法は正に銃隊を編成するに勝れるものあることなく、而してこは軍國の重大事なるが故に、三州の全力を擧げて資用を醵出せしめ、前例に拘泥せずして實効を奏せしむるを期せざるべからずと。次いで十一日諸士の熨斗目・長袴を廢し、平日に在りては羽織を以て肩衣に代へしめ、幼年者の衣服に振袖を用ふるを禁じ、而して藩侯自ら服飾を改めてその例を示せり。二十三日慶寧又令して、作事奉行及び小松作事奉行の職を廢し、内外兩作事奉行を復し、二十四日諸士の小銃を練習する射的場の距離を五十間とすべきことを定め、二十八日出船奉行及び能州破損船奉行を止め、その事務は之を各地の十村に取扱はしめき。翌二月朔慶寧幣帛を白山比咩神社等の六社に奉り、且つ本月春分に當りて新年祭を行ふべきを令し、五日には人持組頭等に屬する陪臣の兒女を嫁せしむるに當り、轎夫をして花紋を染めたる號衣(カンバン)を着けしむるを禁じ、六日諸士の學校に登る際便宜に隨ひて筒袖・小袴を用ふるを得しめ、又學校より直に登城する場合に在りては故らに服裝を改むるを要せずとなし、十四日藩侯便殿の前庭に射的場を設け、近侍の臣をして操銃の法を練習せしめ、又藩侯の市街を通過する際諸士は門を閉ぢ窓を塞ぎ、商賣は業を休み店前に屏風を飾るの舊慣ありしを改めしめ、二十五日從來藩侯等が兼六園に至る時百間堀通りの通行を禁止せしを改め、二十八日自今毎月二十九日が先帝孝明天皇崩御の日なるを以て、諸士の禽獸魚介を捕獲するを禁じ、三月十四日には封内の地理を諳んじ又君臣相親睦するの目的を以て、慶寧は老臣本多政均及び長連恭を從へ馬を飛ばして河北郡木津村に赴き、十七日令して城内當直の大小將組以下歩士に至るまで、公務の餘暇を割きて大炮・小銃の操法及び鎗劍の術を大廣間の前庭に演じ、有司の志ある者も亦之に加らしめき。十九日慶寧自ら河北郡鈴見村に至りて製銃所を視、石川郡牛坂村の彈藥所に至り、又笠舞村の非人小屋の設備を巡察せり。この日令して與力及び歩士襲祿の制を改定す。蓋し舊例によるときは、各その父の勤勞の程度に隨ひ襲祿の遲速一定することなかりしを、一般に與力は七ヶ月歩止は三ヶ月の後に於いてすることゝせしなり。二十一日慶寧老臣村井長在を召して告げて曰く、聞く、余の曩きに非人小屋を巡視するや、貧民のこゝに收容せらるゝもの皆深く之を徳とせりと。然るにその設備を見るに、牆壁は破れて風雨を防ぐに足らず、食餌は則ち疎糲脱粟の類にして口腹を滿たすこと能はず。此くの如きは能く救育の趣旨に適せりと言ふを得ざるなり。且つ比年凶荒相繼ぎ物價奔騰して、小民の困窮するもの現に收容せらるゝものゝ外尚頗る多かるべし。卿等速かに算用場奉行と議し、誠意を傾けて救恤の途を竭くせと。この時兵庫開港の期將に近きにあらんとせしを以て、二十八日慶寧は又書を以て諸士に諭し、大に武事を懈ること勿らしめき。