七月八日英艦ベレスレク・セルペント・シエルシスの三隻また所口港に入りて碇泊す。これ日本海沿岸に開港場を設くるに、新潟と七尾と何れが勝れるかを知らん爲にして、その士官アーネスト・サトウ及びシツトフオード二人は、十一日陸路より大坂に赴けり。同十一日佛國軍艦ラプラースも亦同港に入りて泊す。外國軍艦の頻々として來るや、乘組員の食料に充つるが爲、生牛を附近の村落に徴發し小島村の海岸に於いて屠殺したりしが、その皮を剥ぎ骨を解くの状佛教徒をして見るに堪へざらしむるものありき。村民等乃ち相議し、屠殺せられたる畜牛の爲に法會を妙觀院に營み、境外に碑を立て刻して牛追善塔といへり。この碑今現に存す。是より先慶寧幕府に請ひて曰く、能登の國たる遠く北海に斗出し、外舶に對する防備最も嚴密なるを要す。然るに國内幕府の領邑若干ありて、その政務は之を加賀藩に委託せらるといへども、農民尚能く我が命に服せずして海防の施設意の如くならざるもの多し。是を以て敢へて請ふ、自今悉くその民籍を我に附し、その租税は之を金銀に代へて藩より幕府に致さんと。是の月九日幕府乃ち令してこれを允せり。 牛追善塔在鹿島郡妙觀院 牛追善塔 革新の政治はこれより後尚陸續として行はれき。即ち九月朔日小松城の武具奉行を廢し、小松馬廻番頭をして之を攝行せしむることゝし、十月四日輪島・正院・所口に戍する馬廻組の士を罷め、二十日定番附の同心を廢し、組附與力を以て明組與力に加へ、二十八日馬廻組を改めて銃隊馬廻組とし、先手物頭を罷め、更に銃隊物頭及び炮隊物頭を置き、又射手(ヰテ)を止めて銃隊馬廻に加へ、次いで三十日定番馬廻組及び組外組の士を皆銃隊馬廻組に編入し、十一月八日足輕等の子弟千餘人を募り、銃手及び鼓手に補して祿各十五俵を與へき。同月十日又藩吏職俸の制を改む。舊制に據れば、諸士の秩百五十石に滿たざる者にして頭役に補せらるゝ時は必ず加賜して百五十石と爲し、その祿は子孫をして尚且つ之を傳へしめたり。是を以て適材を適所に置かんと欲するも、支出の増加を恐れて斷行し得ざることなきにあらざりしを以て、自今在職中に限り原秩を併せて百五十石を給することゝせしなり。十二日諸有司及び老病幼弱の士を編して寄合馬廻組と爲し、十三日奏者番をして城中に交番宿直せしむるの新例を開き、又從來窮民を收容する所を非人小屋といへるも、其名稱穩當ならざるを以て撫育所と改めしむ。十九日銃隊幹部の職秩を定め、番頭は百五十石、使番は百石、旗奉行・軍役奉行・小荷駄奉行にして本秩百石以下なる者は銀三十枚、二百石以下なるものは銀二十枚、三百石以下なるものは銀十枚を職俸とし、伍長にして百石以下なれば銀二十枚、二百石以下なるときは銀十枚を與ふることゝせり。二十三日從來諸士より徴したる普請役銀之を廢して新たに兵賦を出さしむることゝし、普請奉行を罷め普請會所を閉鎖せり。二十七日藩侯の他國に在るときは、人持組等の士に命じて柳之間に番直せしむること尚延寳・元祿の舊制の如くならしむ。これ從來番直の任に當りたる定番馬廻組の士が悉く銃隊馬廻組に編入せられたるを以てなり。十二月朔日もと普請會所の管掌に屬したる城内の石壘及び辰巳用水を作事所の主管に移し、犀川・淺野川等の堤防を定檢地所に隸せしめ、臣僚の邸地及び地租は之を町奉行の事務となし、同月四日武具所を罷めて細工所に併合せり。凡そ此等改革の狂はるゝ實に疾風迅雷の如きものありしかば、父祖の遺勳に因りて太平の夢を貪りたる多數の士人中には、國運の如何に變轉しつゝあるかを知らず、表面屈從の態を粧ふといへども内心には不平の念勃々たるもの亦無きにあらざりき。